安芸城(あき)
 別称  : 安芸土居
 分類  : 平山城
 築城者: 安芸親氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、石垣、堀、虎口、井戸など
 交通  : 土佐くろしお鉄道ごめんなはり線安芸駅よりバス
       「西木戸」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           安芸城は、延慶元年(1308)(もしくは二年)に、安芸親氏によって築かれたと伝えられる。
          安芸氏は蘇我赤兄の子孫といわれるが、諸説あり判然としない。それまでの居城は、安芸城
          の南東、清水寺岡にあったとされる。
           戦国時代には、安芸氏は安芸郡5千貫を領し、土佐七雄の1人に数えられた。長宗我部元親
          の勢力が伸張すると、安芸国虎はこれと対立した。永禄十二年(1569)の八流の戦いで国虎
          は元親に敗れ、国虎軍は安芸城に逃げ込み籠城したが、そのまま包囲された。籠城は24日間
          に及んだが、頼みの綱である国虎の義兄一条兼定の援軍は現れず、さらに城中からは内応者
          が出て城の井戸に毒を投じたため、城兵の士気は著しく衰えた。国虎は城兵の助命を条件に
          城を明け渡し、菩提寺である浄貞寺で自害した。
           落城後、安芸城は元親の弟香宗我部親泰に与えられた。元親による土佐統一の後、親泰は
          南阿波への侵攻を任された。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏が除封されると、代わって土佐を領した山内
          一豊の家老五藤為重が安芸城に入った。その後一国一城令が発布されたが、安芸城は安芸
          土居と名を変え、幕末まで存続した。


       <手記>
           安芸城は、長宗我部元親と激戦を繰り広げた安芸国虎の、悲哀の城であるといえます。城内
          には、内応者によって毒が投じられたと伝わる毒井戸が今も残っています。
           北から東側と流れる安芸川を背にした独立丘上に築かれていて、山頂の本壇を中心に、南北
          に数段の曲輪を構えています。南側には、五藤氏時代に土居として整備された郭中や石垣、
          土塁、水濠などが残っています。どこまでが安芸氏時代の面影を伝え、どこからが五藤氏時代
          のものかにわかには判別できませんが、山容に安芸氏の繁栄を垣間見ることはできるかと思い
          ます。

           
 土居の虎口と濠。
本壇のようす。 
 南二の壇と三の壇のようす。
 北二の壇のようす。 
 毒井戸跡。


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