アルトエムス城
(Burg Alt-Ems)
 別称  : エムス城
 分類  : 山城(Höhenburg)
 築城者: ヴェルフ家か
 交通  : ホーエネムス駅から徒歩30分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           12世紀にバイエルン公ヴェルフ家によって築かれたと考えられている。同世紀後半にはホーエン
          シュタウフェン朝神聖ローマ帝国の所有となったとみられ、その家士として1170年にはエムス家の
          存在が史料にみえる。アルプス・ライン渓谷に睨みを利かせる帝国の城として、アルトエムス城は
          は地域でも最大級の城塞に拡張された。
           1194年、シチリア王タンクレーディが没すると、皇帝ハインリヒ6世はタンクレーディの叔母コンス
          タンツェと結婚していたことから、王位を要求して南イタリアへ遠征した。パレルモを制圧して王位に
          就いたハインリヒ6世は、タンクレーディの子グリエルモ3世を失明・去勢させてエムス城に幽閉した。
          グリエルモ3世は1198年に死去したとされるが、その最期は明らかでない。1206~07年にかけて、
          ハインリヒ6世の弟フィリップ・フォン・シュヴァーベンに敗れたケルン大司教ブルーノ4世もこの城に
          幽閉されている。
           1403年にアッペンツェル市がザンクト・ガレン修道院からの独立を標榜してアッペンツェル戦争が
          勃発すると、1407年にアルトエムス城はアッペンツェル市らが結成した「越湖同盟(Bund ob dem
          See)」軍に包囲され、2か月に及ぶ籠城戦の末に落城した。この戦いでは、フォアアールベルクで
          銃火器が使用されたといわれる。
           城はほどなく再建され、1430年に帝国直轄領となった。1560年、エムス家は帝国騎士から伯爵
          に叙され、ホーエネムス家(Graf von Hohenems)を称した。同時にメディチ家やボロメオ家といった
          イタリア名家との婚姻により富と名声を高め、1566年にアルトエムス城の改修に着手した。20年の
          歳月をかけて、城はルネサンス様式の城塞に拡張され、17世紀前半の三十年戦争も無傷で生き
          延びている。
           ホーエネムス家は1613年にファドゥーツおよびシェレンベルク伯領を購入し、1646年にはホーエ
          ネムス=ルステナウ家とホーエネムス=ファドゥーツ家の2流に分かれた。しかし1759年には両系統
          とも男系が絶え、アルトエムス城はオーストリア帝国に収公された。1792年に至って廃城・取り壊し
          が決定され、石材はホーエネムスの街の復興資材に転用された。


       <手記>
           アルトエムスとは直訳すれば「古エムス」の意で、北東にはノイエムス(新エムス)とも呼ばれる
          グロッパー城があります。ですが、この城のアルト(alt)はラテン語のaltus(高い)に由来し、山麓の
          ホーエネムス(高いエムスの意)と同義なのだそうです。そんなアルトエムス城は見るからに険阻
          な岩山の上に築かれており、古くから要塞として機能していたというのも納得です。登るのも大変
          そうですが、西麓のホーエネムス宮殿と聖カルロ・ボッロメーオ教会の間から登山道がしっかりと
          整備されています。ひたすら続く九十九折れにMPが削られるもののハイキング客も多く、なかには
          赤ん坊を背負って登ってくる強者夫婦もいました。
           石材は麓の街に使われたということで、18世紀まで存続していたとは思えないほど、中世の城館
          同然の廃墟となっています。廃墟のままで修復が進められ、展望台などとして補修されている箇所
          もありますが、天井はほぼありません。近世まで残っていたことから、建物の配置はわりとはっきり
          分かっているようで、なかには監獄塔跡という場所もあり、ここでグリエルモ3世が目を抉られ去勢
          されたのかと思うと、股間がうすら寒くなります^^;
           岩尾根の前方側はシェレンベルク曲輪(Schellenberg Vorburg)と呼ばれる広めの空間が2~3段
          ほど続いています。城壁の痕跡などは見られないため、ここだけなら日本の中世山城跡といっても
          分からないでしょう。
           主城域の背後鞍部には城門も残り、これが大手門ならかつての大手道は街とは反対の南東麓
          から登っていたことになります。現在の登山道の行き着く先には堀切(Halsgraben)が設けられて
          いたとされていますが、今ではほとんど埋まっています。その奥のピークの向こう側にも搦手門が
          あったそうですが、そちらまでは行く気力が湧きませんでした。
           城山からの眺望は素晴らしく、帝国の権威を象徴する地域の拠点であったというのも頷けます。
          アルプス・ライン渓谷で巡ったなかでは、最も規模の大きな城跡でした。

           
 アルトエムス城跡を望む。
大手虎口か。 
 大手門か。
背後鞍部から外堡(Barbakane)を見上げる。 
 外堡と城壁を見上げる。
外堡脇の城門。 
 外堡から主城域を望む。
外堡のようす。 
 宮殿の外壁。
宮殿外壁を外側から。 
 監獄塔跡。 
同上。 
 礼拝堂跡。
城山からの眺望。 
右奥にボーデン湖が見えます。 
 火薬塔跡。
二の郭跡(Unterer Burghof)を俯瞰。 
 二の郭の「コンラートの井戸」。
二の郭の城壁。 
 二の郭の城壁を外側から。 
前方尾根のようす。 
 シェレンベルク曲輪の段築地形。
シェレンベルク曲輪のようす。 
 同上。
尾根先端部からの眺望。 
 主城域から西側のピークを望む。
頸部堀切(Halsgraben)跡。 


BACK