姉川城(あねがわ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 菊池武安 | |
遺構 : 曲輪跡、堀 | |
交通 : JR長崎本線伊賀屋駅徒歩20分 | |
<沿革> 正平十五/延文五年(1360)ごろに、菊池武安によって築かれたと考えられている。武安は菊池氏 12代当主菊池武時の子武澄の子である。この前年には、筑後川の戦いで菊池氏率いる南朝軍は、 少弐氏率いる北朝軍に勝利し、大宰府を目指して勢力を拡大していた。翌正平十六/康安元年(13 61)、菊池勢は大宰府の制圧に成功し、征西府を立ち上げたが、建徳二/応安四年(1371)に今川 貞世(了俊)が九州探題に任じられて出陣すると、菊池勢は敗れて大宰府を失った。菊池勢は、筑後 川南岸に追いやられて高良山を拠点としたため、姉川城はこのときに今川勢に制圧されたものと推測 される。 その後の経緯は不明だが、戦国期には武安の後裔を称する姉川氏が城主となった。ただし、武安は 高良山に移った後、永和三/天授三年(1377)の千布・蜷打の戦いで討ち死にしており、武安の子孫 がどのような経緯で姉川に所領を得ることができたのか、疑問が残る。 姉川氏が史料に登場するのは、15世紀中ごろに少弐氏に属していた姉川友安からである。友安の 子惟安は、天文二十二年(1553)に龍造寺隆信が筑後の蒲池氏の支援を受けて佐賀城に返り咲くと、 大内氏と結んだ龍造寺氏に抗しきれず、隆信に臣従した。永禄元年(1558)の勢福寺城攻めや翌年 の長者林の戦いでは、隆信は姉川城を本陣としたと伝わる。 元亀三年(1572)、惟安の子信安は三根郡米田(現在の上峰町前牟田)に所領を与えられて、姉川 から移った。姉川城は、このときに廃城となったものと推測されるが、詳細は不明である。 時期は詳らかでないが、鍋島三生の1人で鍋島直茂の従兄弟の鍋島道虎(生三)が姉川に所領を 得て姉川鍋島家(坊所鍋島家とも)を興した。天正八年(1580)に、直茂の養子茂里が姉川に程近い 横武に所領を得て横武鍋島家を興しているので、この前後のことと推察される。生三は信安の跡目を 継いだともいわれるが、詳細は不明である。姉川氏は、信安の子房安が直茂家臣として続いている <手記> 姉川城は、筑紫平野のクリークを利用して築かれた城で、「利用した」というよりはクリークに浮かぶ 島々を連結したような城です。そのさまは、地図上からも一目で城跡と分かります。 城跡の中心部には、「館」の小字の残る最も大きな島があり、これが主郭と考えられています。「館」 付近は発掘調査が行われており、その結果、姉川城の存続期間は12世紀前半〜17世紀とみられて いるそうです。これが正しければ、武安はすでにあった城館を改修して利用したものと考えられます。 現在、城跡一帯は宅地や農地に転用されています。「館」は広大な水田となっていますが、その中心 には一段小高い区画があります。これが何なのかは不明ですが、城の遺構であることは間違いないか と思われます。 「館」の1つ南の島には、天満宮が祀られています。また「館」の西の島には、妙法寺という姉川氏の 菩提寺があったそうです。その他、城内の島々には、「小路屋敷」や「奥館」といった小字が残り、それ ぞれの島が、別個に役割をもった曲輪であったことがうかがえます。 さて、姉川城主姉川氏は菊池武安の子孫を称していますが、上記の通り普通に考えて武安が姉川 に返り咲くことは不可能に近いといえます。一応、友安以下「安」を通字としているので、本人たちにも 菊池氏後裔という自覚があったようですが、このあたり一帯は馬場氏や横岳氏といった少弐氏庶流が 固めていることを考えれば、やはり姉川氏も少弐氏一族かその家臣筋とみるのが妥当なのではないか と思われます。 |
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姉川城址の説明板。 | |
天満宮。「館」の南の島。 | |
「館」と呼ばれる主郭とみられる島。 | |
天満宮の東、「館」の南の島。 | |
城内のクリーク。 |