旭山砦(あさひやま)
 別称  : 朝日山塁、旭山城
 分類  : 山城
 築城者: 武田氏か
 遺構  : 堀、土塁、虎口
 交通  : JR中央本線長坂駅よりバス
       「長沢」バス停下車徒歩30分

       <沿革>
           『甲斐国志』には「朝日山塁跡」として、「壬午ノ時北条氏直ノ所築ト云(中略)古時ノ烽火台
          ト見エタリ」とある。これが正しければ、旭山砦は武田氏によって烽火台として築かれ、天正
          十八年(1582)の天正壬午の乱に際して、北条氏直によって臨時の砦として取り立てられた
          ものと考えられる。乱の終結と共に廃城となったと思われるが、詳細は不明である。


       <手記>
           佐久甲州街道が清里高原へとかかる八ヶ岳の裾野に、のっそりとせり出した旭山の山頂が
          砦跡です。南か北から、山頂まで林道が延びています。徒歩で訪れる場合は、北から回った
          方がフラットにたどり着けます。
           『日本城郭大系』にしたがえば、旭山砦は大きく3つの曲輪から成り立っています。それぞれ、
          山頂の曲輪を三の郭、その南に一の郭、一の郭の西に二の郭となっています。ですが、私の
          見たところ、山頂の三の郭こそが主郭で、他の2つの郭は後述する通り後になって増築された
          もののように思われます。ただ、ここでは便宜上『大系』の表現に沿うことにします。
           山頂の曲輪である三の郭は、結構な面積をもつものの削平は甘く、周囲を堀と土塁で囲った
          だけの単純なものです。それに対し一の郭と二の郭は、直線と直角を基調とした整然たる曲輪
          で、三の郭よりも明らかに進化したつくりとなっています。したがって、武田氏時代には三の郭
          のみの単郭の烽火台として使われていたものが、天正壬午の乱に際して北条氏によって取り
          立てられ、徳川軍との前線に向いた南側に一の郭と二の郭が増築されたという推測が、容易
          に成り立ちます。
           三の郭と一の郭の間は喰い違い状の虎口となっており、ここに朝日山塁跡の石碑が建って
          います。一の郭には、東と南の2ヶ所に虎口が開いています。二の郭は、一の郭の西に擂鉢
          状の凹地形を利用した兵の駐留スペースと思われ、一の郭との境は不明瞭です。二の郭の
          西端には、凹状谷戸を堰き止めるかのように土塁が設けられています。
           旭山は、地図を見て分かる通りとても緩やかな山で、要害を設けるには不向きです。武田氏
          時代に烽火台が置かれたとしても、ここに籠って戦う意志があったとは思えません。北条氏と
          しても、ここで戦うというよりは、兵の駐留のための陣城を意識していたと考えられます。天正
          壬午の乱関連の城砦については、近年研究が進められていますが、旭山砦はそのようななか
          でも遺構が良好に残っているものの1つであると思われ、貴重な城跡といえます。

           
 三の郭南端の虎口にある石碑。
三の丸の土塁(左手)と一の郭との間の空堀。 
 一の郭のようす。
 土塁で囲まれているようすがわかります。
一の郭東辺の虎口。 
 一の郭南辺の虎口。
二の郭南辺の土塁。 
 二の郭のようす。
二の郭西辺の土塁を望む。 
 三の郭南の喰い違い虎口。 
三の郭北辺の堀と土塁。 
 同上。


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