浅利氏館(あさりし) | |
別称 : 浅利与一館 | |
分類 : 平城ないし山城 | |
築城者: 浅利義遠か | |
遺構 : 不明 | |
交通 : JR身延線小井川駅よりバス 「浅利上」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 甲斐源氏棟梁源清光の十一男浅利与一義遠の居館跡と伝わる。義遠は弓の名手 として知られ、佐奈田与一(義忠)・那須与一とともに「三与一」と呼ばれた。源平合戦 で源頼朝に属して武功を挙げ、出羽国比内郡の地頭職を賜った。 承久三年(1221)の承久の乱に際し、義遠の子知義が幕府方で参戦していたことが 『承久軍記』にみえる。その後の浅利氏の動向についてはしばらく不明となるが、文和 三年(1354)の『沙弥浄光譲状』に、「甲斐国青島庄浅利郷」の領有を示す文言がみら れる。浄光は比内領主としてその名が現れる人物で、このころまでには浅利氏の宗家 筋は比内へ下向・土着していたものと推測される。 甲斐の浅利氏が再び史料に現れるのは、武田信虎に仕えた浅利伊予守虎在からで ある。虎在の子信種は、永禄十二年(1569)の三増峠の戦いで討ち死にした重臣級の 武将として知られる。信種の嫡男昌種(勝在)が跡を継いだが、『甲陽軍鑑』によれば、 信種が率いていた同心120騎のうち半分の60騎を継承し、もう半分は土屋昌続(昌次) に与えられたとされる。その理由は不明だが、天正三年(1575)の長篠の戦いで昌続 が討ち死にすると、再び昌種が120騎を率いることになった。天正十年(1582)に武田 氏が滅んだ後、昌種は徳川家康に仕えた。 虎在以下の浅利氏の居館がどこにあったのか、また浅利義遠の頃と同じものなのか など、詳細は不明である。 <手記> 浅利川と大森川に面した細長い丘陵の先端付近が伝浅利氏館跡とされています。 県道29号線沿いの山肌直下に石碑が建てられており、「これより上百米 浅利与一之 館跡」と彫られています。これを真に受けて、私は石碑背後の斜面を直登したのですが、 結構急峻なうえに種のくっつく植物が繁茂しており、ひどい目にあいました(笑)。上の 地図の通り、丘の西側小谷戸を登る道がちゃんとあるので、そちらへ回りましょう。 丘の頂部や中途の尾根筋に断続的に畑地がありますが、城館跡らしきものは見当た りません。部分的に発掘調査も行われたようですが、やはり何も見つからなかったとの ことです。 そもそも、比定地は周辺でもわりと急峻でそこそこ高さもある丘で、少なくとも平安末 の武士が居館を営むような場所とは思えません。『甲斐国志』にも、「七倉ト云処アリ 浅利与市ノ館跡ナリト云伝フ 今ハ尽ク耕田トナレリ」とあり、館跡が田になっていると いうことは、やはり峰上ではなく平地か谷戸にあったとみるべきであると思われます。 中央市(旧豊富村)郷土資料館の館長さん(たぶん)のお話では、むしろ小川ひとつ 挟んだ北側に鎮座する諏訪神社が、台地端に位置していることもあって怪しいのでは ないかと睨んでいるとのことでした。諏訪神社は浅利荘の総鎮守で、境内には義遠が 寄進したとされる水盤などの石があります。 たしかに、諏訪神社は小谷戸を望む崖端にあり、現行の比定地よりは開拓武士の 館地形の条件を満たしているように思われます。境内南辺には結構目立つ土塁状の 土盛りがあり、大きな木が生えていることからそう新しいものでもないように見えるの ですが、とくに何も触れられておらず気になります。 個人的に注目しているのは、七倉の尾根のむしろ北端付近です。ここには、高台の 好立地に一軒の旧家があります。この尾根先の三方を回るように小川が流れ、東麓 で浅利川に合流します。合流点近くには弁天社があり、周辺の水利の要地であった ことを匂わせます。ここもまた田があったとは思えないため、浅利義遠の居館であった とは強くはいえませんが、浅利虎在以下の居館が営まれていた可能性はあるのでは ないかと考えています。 |
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浅利氏館跡石碑。 | |
比定地の丘頂部のようす。 | |
中腹のようす。 このあたりが本命とみられていたようです。 |
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諏訪神社。 | |
諏訪神社境内の土塁状土盛り。 |