足守陣屋(ありもり)
 別称  : 木下家屋形構
 分類  : 陣屋
 築城者: 木下家定
 遺構  : 石垣、濠、庭園
 交通  : JR吉備線足守駅徒歩50分


       <沿革>
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、姉妹の豊臣秀吉正室・高台院を警固して中立の立場を
          とった木下家定は、姫路城2万5千石から同石で足守へ移封された。家定自身は京に留まって
          出家したため、所領には代官所が置かれたとみられるが、詳しい支配形態は上明である。
           慶長十三年(1608)に家定が没すると、徳川家康は遺領を長男勝俊と次男利房で分割すると
          したが、高台院が勝俊に一括相続させようと画策したため、かえって家康の上興を買い、翌年
          に所領召し上げとなった。勝俊は長嘯子と号して隠棲し、歌人として後半生を過ごしたが、利房
          は大坂の陣で徳川軍に属して功を挙げたため、元和元年(1615)に改めて足守藩2万5千石を
          与えられた。ちなみに、勝俊・利房兄弟の弟である小早川秀秋は、関ヶ原の戦いでの功により
          岡山藩主となり、2年後の同九年(1602)に21歳で急死している。
           足守陣屋の建築過程は詳らかでないが、4代(利房を2代として)藩主利貞の代の17世紀後葉
          までには、城下町まで整備が完了したとみられている。また、18世紀初めごろには、5代㒶定に
          よって近水園が作庭されたと推定されている。
           足守藩は転封も加減封もなく、12代を数えて明治維新を迎えた。最後の藩主利恭の甥で養子
          として木下子爵家を継いだ木下利玄は、白樺派を代表する歌人の1人として知られる。


       <手記>
           足守陣屋は、戦国時代末期に毛利方の備中境目七城の1つであったとされる宮路山城の麓に
          位置しています。あるいは宮路山城の居館跡を取り立てたのかもしれません。「足守藩主木下家
          屋形構跡岡山市史跡《という呼称で岡山市史跡に指定され、陣屋跡および近水園(おみずえん)、
          そしてその間にある木下利玄生家が史跡公園化されています。
           元和偃武後に整備された陣屋とて、水濠や石垣、横矢状の折れなどは見られるものの、いずれ
          も小ぶりで実戦を意図しているとは思えません。2万5千石の石高を鑑みるとだいぶ控えめな規模
          といえ、豊臣秀吉の姻族ということで幕府に気を遣っていたのかなという推測がはたらきます。
           他方で、近水園や利玄生家はとても風雅な趣でした。勝俊の血は引いていないとはいえ、藩の
          先史に長嘯子、後史に利玄、そして中ほどに近水園を造営した㒶定と、足守藩木下家は風流な
          一族だったんだなぁと感じます。そうして見ると、城下の家並みにも情趣があり、時間さえあれば
          ゆっくり散策してみたいとも思いました。

           
 陣屋跡石碑と、背後に説明板。
陣屋跡南東隅の濠と石垣。 
 東辺の横矢状の折れ。
陣屋跡のようす。 
 木下利玄生家。
近水園。 
 同上。
旧足守藩侍屋敷。 


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