阿曽沼城(あそぬま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 阿曽沼広綱 | |
遺構 : 堀 | |
交通 : JR両毛線・東武佐野線佐野駅徒歩15分 | |
<沿革> 藤原秀郷(俵藤太)後裔の藤姓足利氏庶流阿曽沼四郎広綱によって寿永元年 (1182)に築かれたとされる。広綱は、足利俊綱の弟足利(戸矢子)有綱の四男 にあたる。俊綱は治承五年(1181)ないし寿永二年(1183)に志田義広の蜂起に 呼応して源頼朝に背き、子の忠綱とともに討滅されたが、広綱や兄の佐野基綱、 それに父有綱は頼朝に味方した。 広綱は文治五年(1189)の奥州合戦の功績により陸奥国遠野保の地頭に補任 された。阿曽沼城は広綱の子朝綱が継承し、朝綱の弟親綱は、遠野へ下向して 陸奥阿曽沼氏や後に毛利家重臣となる安芸阿曽沼氏の祖となった。朝綱は親綱 の子光綱を養子としたとされるが、その後の動向は定かでない。 室町時代の城館とされる阿曽沼城東方の鐙塚阿曽沼城は、阿曽沼弾正の築城 とされている。また戦国時代の佐野家臣に阿曽沼氏の名がみられるともいわれる が、鎌倉時代以降の阿曽沼城の歴史については不明である。 <手記> 東武佐野線が西を走る浅沼八幡宮の裏手に、南北方向直線の空堀がはっきり 残っています。現地説明板によれば、城域の広さは東西約180m、南北約230m になるそうです。 とはいえこの堀のほかに遺構はなく、地形の上でもとりたてて特徴がないので、 どのような城であったのかは現況からはうかがいきれません。それでもこれだけ の堀が街中に残っているというだけでも、十分ありがたいところではありますが。 |
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阿曽沼城址碑 | |
堀跡。 | |
浅沼八幡宮。 | |
境内西辺の城址標柱。 |