馬場氏屋敷(ばばし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 馬場信春か
 遺構  : なし
 交通  : JR中央本線韮崎駅からバス
       「白須下」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           武田四天王の1人として名高い馬場美濃守信春の館跡と伝わる。信春は初名を教来石景政と
          いったが、一般には武田信虎によって粛清された馬場虎貞の名跡を継いで改名したとされる。
          教来石氏については土岐氏流とされ、白州町下教来石・上教来石地区を本貫地とする。他方で
          馬場氏については木曽家村の三男家景を祖とするとされ、その本貫地は信濃国にあると思われ
          るが、詳しい場所については定かでない。『馬場家譜』によれば、15世紀前半ごろに教来石信明
          が甲斐守護武田信重の娘婿となったうえ、馬場氏の名跡を継いだとされる。これが正しければ、
          馬場氏は教来石氏および武田氏と縁戚関係にあったことになる。信明の4代子孫が虎貞とされ、
          この場合信春は武田家重臣というより同族の名跡を復興した形になる。
           教来石地区は馬場氏屋敷のあった白須地区とは鳥原地区を跨いでやや距離があり、教来石
          氏が教来石から白須に至る広大な領地を当初から有していたとは考えにくい。虎貞までの馬場
          氏の屋敷がすでにあったか、信春が新たに得た所領に館を築いたものと推測されるが、詳細は
          不明である。
           信春は天正三年(1575)の長篠の戦いで戦死し、その子民部少輔は同十年(1582)の武田氏
          滅亡を境に名がみられなくなる。同年の天正壬午の乱前後にも馬場氏の動向は確認できない
          ため、この年に屋敷も廃されたものと推測される。


       <手記>
           北杜市白州町白須1008-1に通称「梨子の木屋敷」と呼ばれる馬場氏屋敷の伝承地があった
          とされています。現在は、保育園向かいの医院と薬局となっており、説明や案内はおろか遺構
          の確認も困難です。地形的にも何の変哲もない裾野といった感じで、本当にこんなところに居館
          が構えられていたのかちょっと疑問に感じる地形ではあります。
           旧甲州街道筋の白須の町から一歩釜無川側に下がったところには、馬場氏の菩提寺である
          自元寺があります。その山門は前出の「梨子の木屋敷」から移築された四脚門で、説明板には
          馬場氏屋敷の遺構のように書いてありますが、確証は得られていないようです。
           『日本城郭大系』では、私と同様「梨子の木屋敷」の立地に疑問を抱いており、この自元寺の
          方こそ馬場氏屋敷であると推定しています。たしかに押さえるべき街道や集落に近く、上屋敷
          の字もあったそうで、可能性は考えられます。ただし、先述のとおりここは集落よりだいぶ低い
          位置にあり、また集落側を除く寺の周囲は今なお植樹林が広がるばかりの荒涼とした土地で、
          ここに居館があったというのも、ちょっと合点がいかないように思います。
           天下の馬場信春の屋敷跡というのに、なんとも喉に小骨が引っかかったような気分で確信が
          得られませんでした^^;


           
 自元寺山門として移築された「梨子の木屋敷」の四脚門。
自元寺本堂。 
 「梨子の木屋敷」跡周辺現況。


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