| バーゼル (Basel) |
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| 別称 : なし | |
| 分類 : 都城 | |
| 築城者: 不明 | |
| 交通 : バーゼル中央駅から市電乗車 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> バーゼル周辺では先史時代の遺跡も多く見つかっており、大聖堂の建つ丘の先端側からは 青銅器時代の紀元前900年ごろの堀跡が検出されている。このころ既に集落防衛の必要が あり、堀に沿って木造の柵や城壁が設けられていたと推測されている。この城砦集落は火災 で焼失したと考えられており、その後はローマ時代まで、大聖堂の丘(ミュンスターヒューゲル) に大規模な城砦や集落が建設された形跡はみられていない。 紀元前80年ごろ、ミュンスターヒューゲルに城塞化された集落が築かれ、周辺の集落を糾合 していったとみられる。紀元前6世紀のガリア戦争でスイスがユリウス・カエサルに征服される 以前のことであるため、ローマやゲルマン人の脅威に晒されたケルト人が建設したものと推測 される。このときの堀は、今日のボイムラインガッセのあたりにあったとされる。 紀元前のアウグストゥス帝時代に、アウグスタ・ラウリカと呼ばれるローマの植民市(ウィクス) に改められ、ライン川には橋が架けられ、複数の交易路が交わる商都となった。とくに紀元後 1世紀後半になると、国境はさらに北へ移動したため、平和な時代(パックス・ロマーナ)を享受 して大きく発展した。 3世紀後半にゲルマン民族が侵攻するようになると、ミュンスターヒューゲルに再び防御施設 が建造された。4世紀に入ると、ローマ帝国のライン川防衛システムの一端に組み入れられ、 そのなかで今日のバーゼルに繋がる「バシリア(Basilia)」という名称が初めて登場している。 ローマの歴史家アンミアヌス・マルケリヌスによれば、374年に皇帝ウァレンティニアヌス1世が 軍勢を率いてバシリアの近郊に駐屯した。ただし、ウァレンティニアヌス1世はドナウ川方面の ゲルマン勢力に当たっていたとされ、翌375年に現在のハンガリーで没したとされている。 5世紀後半にはローマ軍が撤退し、代わってアレマン人やフランク人が入って来た。同世紀 末から6世紀初めごろ、バーゼルはフランク王国に編入されたとみられている。フランク王国が 9世紀に3分割されると、東フランク王国領となった。この間、802~823年にバーゼル司教で あったハイトによって、最初の大聖堂が建立されている。 917年にはマジャール人が侵攻し、町は破壊され当時の司教も戦死したと伝わる。これに 前後して、バーゼルは東フランク王国から分離した上ブルグント王国(ユーラブルグント王国) が領有した。1006年には、後に神聖ローマ皇帝となるドイツ王ハインリヒ2世の支配下に入り、 バーゼル司教アーダルベロ2世が実質的な統治者となった。アーダルベロ2世は、ハインリヒ 2世からエルザスやブライスガウにおける諸権限を与えられ、バーゼル司教領の基礎を形成 した。また、それまでの大聖堂の基礎上にロマネスク様式の新たな堂宇を造営し、ハインリヒ 大聖堂ないしアーダルベロ大聖堂と呼ばれたとされる。 11世紀後半の叙任権闘争においても、バーゼル司教ブルクハルト・フォン・フェニスは世俗 権力である神聖ローマ皇帝を支持し、1077年のカノッサの屈辱に際しても皇帝ハインリヒ4世 に随伴している。また、ブルクハルトはこうした緊張状態のなか、1080年から1110年ごろに かけてバーゼルに最初の中世都城の城壁を築いた。 1180~1230年ごろ、現在に繋がる後期ロマネスク様式の第3期の大聖堂が建設された。 また1225年には、バーゼル司教ハインリヒ・フォン・トゥーンによってライン川に架橋された。 これにより、川の対岸にクライン=バーゼル(小バーゼル)が発展し、14世紀にかけて両町を 囲む城壁が増築されている。 このころ、バーゼル司教はエルザスやブライスガウに多くの所領を有して強勢を誇ったが、 他方で13世紀初めには騎士と市民の評議会による都市自治が始まり、バーゼル市としての 統治機構が成熟していった。1392年には市が司教からクライン=バーゼルを購入し、同世紀 半ばごろには、司教はバーゼル市街の外に起居するようになったといわれる。14世紀後半 以降、バーゼル市は自由都市を自称して司教からの完全な独立を図った。 15世紀に入り、バーゼルはスイス原初同盟とは当初距離を取っていた。帝国等族と原初 同盟が争ったシュヴァーベン戦争でも中立を保っていたが、1499年に戦争の講和条約として バーゼルの和訳が結ばれると、その2年後の1501年にスイス連邦へ加盟して11番目の州と なった。 1529年、宗教改革を受けてプロテスタントに転じたバーゼルは、司教の身柄および権限を 市内から排除した。1585年のバーデン条約によって司教領の主権の完全移譲が確認され、 1587年には大聖堂参事会もフライブルクへ移され、バーゼル・ホーフと呼ばれ今日に至って いる。1535年には迫害されていたジャン・カルヴァンがこの地で『キリスト教綱要』を発表し、 バーゼルでは誕生したばかりの印刷・出版業も栄えることになった。 1691年、フランスがアルザス防衛のため、バーゼル北西のユナング(ヒューニンゲン)に ヴォーバンの設計で要塞を建造した。フランスは、さらにライン川のシュースター島に出丸を 築こうとしたが、島の一部はバーゼル領であったため、直接の領土争いにまで発展した。 バーゼル市街が砲撃されることもあったとされ、また度重なるフランスとオーストリアの戦い でユナングはしばしば戦場ともなった。1815年のウィーン会議におけるバーゼル市および スイスの強い要請によって、ユナング要塞の破壊と撤去がようやく決定された。バーゼル市 自体の要塞も、19世紀後半中に解体された。 <手記> バーゼルはスイスの北西端に位置する同国3位の人口をもつ都市で、フランスやドイツと 国境を接しています。市街の北には三国境があるのですが、ライン川の真ん中なので、まぁ いいかとそちらはパスしました。貨物船が航行できるライン川の最奥でもあり、河港をもつ 工業都市でもあります。 バーゼルはじまりの地であるミュンスターヒューゲルは、ライン川と支脈に挟まれて延びる 細長い河岸の舌状丘で、そこから段階的に市域が発展していったことは、旧市街を歩いて 回れば容易にうかがい知れます。大聖堂から丘の先端のマルティン教会までが、ローマ期 以来の旧市街中心部で、城砦遺構こそほとんどないものの、重厚な建物が並んでいます。 大聖堂の裏手には、ラインに臨んで近世初期の稜堡とみられるテラスがあり、展望スポット として多くの観光客が訪れていました。 都城についても、初期の内壁に関する遺構は残っていないようです。14世紀に築かれた 外側の城塞については、3つの門が現存しています。すなわち、北西の聖ヨハン門、西の シュパーレン門、そして東の聖アルバン門です。いずれも1356年の大地震から1400年の間 に建造され、門の上に城塔が付属しています。門を通ることは可能ですが、今ではシンボル として静かに佇んでいるのみのようです。さらに、聖アルバン門の北東には中世の雰囲気の 城壁と堀が残っているor復元されているようなのですが、調べが足りずに行きそびれしまい ました泣 |
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| 大聖堂広場。 | |
| バーゼル大聖堂。 | |
| 正面から。 | |
| 大聖堂裏手のテラス。稜堡跡か。 | |
| 白の館。 この付近に青銅器時代の堀があったそうです。 |
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| マルティン教会広場。 ミュンスターヒューゲルの先端部です。 この日は酷暑で、泉に女性たちが足を突っ込んでます笑 |
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| 聖ヨハン門。 | |
| シュパーレン門。 | |
| シュパーレン門を市内側から。 | |
| 聖アルバン門。 | |
| 市内各所にある飲用水の泉。 夏でも冷たくて美味でした。 |
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| バーゼル市庁舎。 ミュンスターヒューゲル西麓の沢跡に建っています。 |
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| おまけ:バーゼル劇場前の噴水。 いろいろなギミックが動いて面白かったです。 |
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