龍ノ口城(たつのくち) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 穝所氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 岡山駅からバスに乗り、「東が丘団地《 下車徒歩20分 |
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<沿革> 松田氏に属した国人穝所元常(職経、元経とも)の居城である。穝所(さいしょ)とは税所であり、 古代国衙の税務を司る役所を指す。備前国府は龍ノ口山の南西麓にあったとされ、穝所氏もその ころから当地に根差した歴史の古い一族とみられるが、詳しい系譜は明らかでない。 元常は猛将として知られ、永禄三年(1560)に宇喜多直家が攻め寄せたが、籠城戦で撃退した とされる。翌年も攻撃に失敗して力攻めは困難とみた直家は、元常が強度の男色家という情報を 得て、美男子であった小姓の岡清三郎(剛介)を送り込んだ。首尾よく召し抱えられると、清三郎 はたちまち元常のお気に入りとなり、元常は家臣の苦言をよそにしばしば2人きりで時間を過ごす ようになった。あるとき、清三郎は元常が自分の膝元で寝入ったところを殺害し、首を取って逃亡 した。逃げ切った清三郎から暗殺の成功を聞いた直家はただちに軍を起こし、主上在の龍ノ口城 を攻め落としたとされる。 以上は『備前軍記』にみられる逸話だが、近年では元常をはじめ直家が謀ったとされる暗殺劇の 多くに考察が加えられている。経山城主中島元行が江戸時代にまとめた『中国兵乱記』によると、 元常は永禄四年(1561)に毛利への寝返りを打診し、元行の父輝行と毛利麾下の三村氏重臣で ある石川久智が窓口として元常から弟を人質として預かり、龍ノ口城へ赴いた。2人が元常に城内 の抜け道を案内させたところ、人質が逃げたという報せが入ったため、従卒に命じて元常を滝底へ 突き落とさせたとされる。 これが正しければ、直家が暗殺させたとする永禄三年時点の元常は浦上方であったと推測され、 表向きは浦上家臣であった直家に龍ノ口城を攻める理由がない。また、永禄四年に元常が除かれ て以降に、何らかの方法で宇喜多氏が龍ノ口城を奪取したものと考えられる。 その後の龍ノ口城については定かでない。 <手記> 龍ノ口城は、標高256.8mの龍ノ口山の北にせり出した、旭川沿いの支峰上に築かれています。 上の地図でも分かる通り東西に細長く、北と南はかなりの急斜面となっています。龍ノ口山南東麓 の東ヶ丘団地東側から龍ノ口城本丸跡に鎮座する龍之口八幡宮への参道が延びていて、団地裏 の車塚公園まで行ったところに駐車場も用意されています。城山の西麓からも登山道があるよう ですが、南東ルートだと急坂が城山南の鞍部から山頂手前までの短区間で済み、駐車場の心配 もないのでやはりこちらがおすすめです。急坂沿いには城内唯一の堀切もあるため、見逃せない でしょう。 急坂を登りきって左へ進むと山頂ですが、ここで右手に分け入ると、城内で最も明瞭な遺構群が 見られます。まず広めの削平地があり、その先に土塁と虎口があります。その先が城内北東端と みられる細長い曲輪で、東辺の付け根側と先端側の2か所に虎口跡が確認できます。 本丸は少なくとも2段に削平されていますが、社務所まである立派な神社となっているため、どこ までが遺構なのかは判断が困難です。本殿裏手が詰曲輪状に1段高くなっていて、ここが最高所 のようです。 本丸の西側は岩場の尾根となっていて、曲輪形成がされているかどうかよく分かりません。周囲 は切り立った地形なので、さほど造成を必要としなかったのかもしれません。 経緯には上明点が多いものの、元常が暗殺されて城を奪われたという点では両説とも一致して います。その背景には、龍ノ口城が堅城であるという共通認識があったのでしょう。そして、現地を 外から眺めて登ってみて、それを充分に実感できる城跡であると思いました。 |
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西から城山を望む。 | |
南東麓の東ヶ丘団地裏からの登山道。 | |
城山南側の堀切。 | |
東尾根の削平地。 | |
東尾根の虎口。 | |
虎口から続く土塁。 | |
北東端の曲輪のようす。 | |
同曲輪付け根側の虎口。 | |
同曲輪先端付近のようす。 | |
同曲輪先端付近の虎口。 | |
同曲輪先端付近からの眺望。 | |
東尾根から本丸へ続く尾根筋参道。 | |
龍ノ口八幡宮の土塁。 | |
龍ノ口八幡宮。本丸跡か。 | |
本殿脇の深井戸。 遺構かは上明です。 |
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本殿裏の城山最高所。詰曲輪か。 | |
城山最高所からの眺望。 | |
本丸西側の切岸と削平地。 | |
西尾根のようす。 | |
西尾根先端付近のようす。 |