カニング城塞
( Fort Canning )
 別称  : フォート・カニング、カニング要塞
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 交通  : 地下鉄ドビー・ゴート駅徒歩10分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           カニング城塞のあるフォート・カニング・ヒルには、14世紀初期に王宮が築かれていたと
          推測されている。当時、シンガポール島はスマトラ島を拠点とするシュリーヴィジャヤ王国
          の支配下にあったものとみられているが、ジャワ島を本拠とするマジャパヒト王国によって、
          14世紀前半ごろに征服された。したがって、王宮がどちらの王国によって建設されたのか
          は定かでない。現地の説明板では、マラッカやスマトラの王宮と選地が似ていることから、
          シュリーヴィジャヤ王国による造営とする考えを仄めかしている。ただし、シンガポールの
          港自体は、それ以前から存在していた。
           他方、1330年ごろにシンガポールを訪れた中国人商人ワン・ダユアン(Wang Dayuan)の
          旅行記には、シンガポールがシャムによって攻撃されたことが記されている。それによれば、
          シンガポールの人々はゲートを閉めて応戦し、通りがかった中国船団に援けられるまで、
          1ヵ月ほどの間抵抗を続けた。その後、シンガポールは東西貿易の中継港として栄えたと
          される。
           14世紀末期、シュリーヴィジャヤ王国最後の王子パラメスワラは、スマトラ島を逐われて
          シンガポールに逃れた。しかし、マジャパヒト王国の内戦に巻き込まれたためシンガポール
          も安全ではなくなり、1396年ごろには、パラメスワラは家臣とともにマレー半島へと渡った。
          パラメスワラはマレー半島にマラッカ王国を築き、中国への朝貢によって国の地位を安定
          させ、逆にシンガポールを支配下に置いた。
           明の鄭和艦隊の保護によりマラッカは貿易港として発展し、シンガポールからその地位
          を奪っていった。また、フォート・カニング・ヒルの王宮も、早ければパラメスワラのマレー
          落ちの際に廃されたものと推測されている。
           1511年に、マラッカはポルトガルによって占領された。マラッカ王国の王子マフムード・
          シャーはジョホールに逃れ、ジョホール王国を建てた。ジョホール王国は、シンガポール島
          対岸のジョホール川河口に都を置いた。ポルトガルの強圧的な占領政策を嫌ったアジアの
          商人は、ジョホール王国やアチェ王国などの反葡勢力の港へ分散した。シンガポールも、
          貿易港としての地位を幾分回復したとみられる。
           1613年、シンガポールはポルトガルとアチェ王国の軍隊によって徹底的に破壊された。
          その後2世紀にわたり、シンガポール島は漁民と海賊が住むのみの荒れた土地となった。
           1819年、イギリス東インド会社の書記官トーマス・ラッフルズが、シンガポール島に上陸
          した。ラッフルズは、島の地理的重要性をさとり、ジョホール王国から商館建築の許可を
          取り付けた。ラッフルズはかつての王宮跡に総督の館を置き、島名をそれまでの現地語の
          シンガープラから英語風のシンガポールに改めた。ラッフルズが上陸したとき、王宮跡の
          丘にはかつての城壁がまだ残っていたとされる。また、現地住民は許可なく丘に登ること
          を拒んだといわれる。彼らは、かつての王宮の丘を、現地語で「禁じられた丘」という意味
          の「ブキ・ラランガン(Bukit Lalangan)」と呼んでいた。
           シンガポールは瞬く間に発展し、1832年にはシンガポールのほかペナンとマラッカから
          なる「海峡植民地(Straits Settlements)」の首都となった。1859年には英国軍が上陸し、
          翌年に丘の北半にカニング城塞が築かれた。
           1942年2月、シンガポールは日本軍に攻撃され、占領された。カニング城塞は日本軍に
          よって継続使用されたが、1945年の日本降伏とともに放棄された。

  
       <手記>
           カニング城塞は、マーライオンの北西、お買いものストリートであるオーチャードの南東に
          位置する丘にありました。南麓にはシンガポール川が流れています。丘は南北に延びて
          いて、北半が近世の城塞、南が中世の王宮跡およびラッフルズ時代の総督府跡となって
          います。
           城塞は第二次世界大戦まで使用されていたため、(おそらく)コンクリート製の建物が
          残っていて、ホテルなどの施設に転用されています。近世城塞時代の遺構は、ゴシック
          様式の門と山頂部を囲っていた石塁の一部、および砲台跡のみです。
           丘の南側には、ラッフルズ・テラスと呼ばれる総督府の建物や、電信の導入まで情報
          伝達に使われていた旗竿があります。私がもっとも気になったものが、この王宮/総督
          府跡の東側にあります。ラッフルズ上陸時点では残存していた街壁は、丘の上から海岸
          まで一直線に伸びていたとされています。この壁には、「パリ・シンガープラ」と呼ばれる
          堀川が付属していたとされています。現在、市壁跡付近と目される場所には、人為的に
          掘り込んで作った階段状の道があり、これが「パリ・シンガープラ」の跡ではないかとも
          指摘されています。もしそうであるとすれば、貴重な中世の遺構ということになります。
           この堀と壁は、シンガポール川と並んで丘の麓を挟み込んでおり、王国時代のシンガ
          ポールはさらに丘と海に囲まれた要塞都市であったと考えられます。
           私がシンガポールに行ったとき、観光ガイドの人たちはみなこぞって「シンガポールは
          ラッフルズが上陸するまで無人島だった」と口を揃えていましたが、実際には上記の通り
          そんなことは決してありません。カニング城塞跡を歩いていても、日本人とすれ違うことは
          ありませんでした。日本人にとっては、シンガポールはリゾートとショッピングの国という
          イメージしかないようで、少々残念に思いました。まぁ、好きでこんなところを訪れる私も
          私なんですが(笑)。
  
 ロマネスク様式の城門。
同じ門を反対側から。 
 石塁跡。
砲台跡。 
 パリ・シンガープラの堀跡と思しき掘り込み通路。
おまけ:シンガポールの夜景。 


BACK