チチェスター
( Chichester )
 別称  : チチェスター城
 分類  : 都城
 築城者: 不明
 交通  : チチェスター駅下車すぐ
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ローマ時代にはすでにローマ帝国の兵営「ノウィオマグス・レギノルム」が建設され、
          ブリテン島進出の足がかりとされた。
           『アングロサクソン年代記』によれば、477年にアングロ・サクソン人の王エッラ(エール)
          と3人の息子が、チチェスターの南にあるセルジーの岬付近に上陸し、周辺を制圧して
          サセックス王国を建国したとされる。チチェスターの名は、3人の息子の1人チッサ(Cissa)
          にちなむといわれる。ただし、実際にはアングロ・クソン人の傭兵による平和的な入植で
          あったと考えられている。
           サセックス王国は、9世紀前葉にウェセックス王国に隷属したうえ、吸収合併された。
          同世紀後半には、ウェセックス王アルフレッド大王によってチチェスターの都城化が進め
          られたとされる。これは、とりわけヴァイキングの侵入に備えるためのもので、海に近い
          チチェスターは、大王によって改修された都城の中でもとくに規模の大きいものだったと
          伝わる。
           1066年のヘイスティングスの戦いでの戦功によってイングランド王となったウィリアム
          1世(征服王)の側近ロジャー・ド・モンゴメリは、シュールズベリー伯に任じられた。同時
          にチチェスターも彼に与えられ、ロジャーは市内に(狭義の)チチェスター城を築いた。
           しかし、3代シュールズベリー伯ロバート・オブ・ベレームはウィリアム1世の子ヘンリー
          1世に背き、1104年に爵位を剥奪された。この間の1075年には、セルジーにあった司教
          座がロンドン公会議によってチチェスターに遷され、大聖堂の建設が始まった。1140年
          前後にアランデル伯爵位が新設されると、チチェスターはその支配下に収まった。 
           13世紀前半にはチチェスター大郡(rape of Chichester)が設置され、サセックス西端
          の都市として栄えた。同世紀中に大聖堂が完成し、1402年ごろには少し離れたところに
          鐘楼が建設された。
           現在も、宗教・政治上の重要都市として特殊な地位を維持している。

  
       <手記>
           チチェスターは、ポーツマスやサウザンプトンと同じくレント海峡に面した海岸の入り江
          の奥に位置しています。かつては直接海へアクセスできたともの思われ、英仏海峡から
          ロンドンへの進行ルートを抑える要衝であったことがうかがえます。
           現在は人口2万人ほどの静かな観光都市で、白壁に緑屋根の美しい大聖堂が中心に
          そびえています。かつての都城の堀跡が環状道路となっているので、旧市街の形状も
          おおよそ把握することができます。貴重な城としての遺構として市壁の一部が現存して
          いて、その上は遊歩道として散策が可能です。
           また、イギリスとしては珍しい鐘楼が大聖堂入口の脇に建っています。こちらは大聖堂
          の美しさとはうって変わって黒ずんだ粗石による重厚なフォルムとなっています。どちらか
          というと城に付属する塔といった雰囲気ですが、防御施設ではないようです。旧市街の
          北西部には、狭義のチチェスター城址にあたるプライオリー・パークがありますが、こちら
          には遺構はないようです。
           ちなみに、チチェスターはじめウィンチェスターやマンチェスターなどの「チェスター」とは、
          フランス語の「〜ブール」やドイツ語の「〜ブルク」に相当するもので、都城化された町で
          あることを示しています。

  
 チチェスター大聖堂全景。
大聖堂付属の石壁。 
城壁ではなさそうか。 
 鐘楼。
市壁の上。 


BACK