宮崎城(みやざき) | |
別称 : 荒山城、泊城、境城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宮崎長康か | |
遺構 : 石塁、土塁、堀、削平地 | |
交通 : あいの風とやま鉄道越中宮崎駅徒歩60分 | |
<沿革> 治承四年(1180)、木曽義仲は以仁王が発した平家追討の令旨に応じて挙兵したが、 以仁王は同年中に敗死した。寿永二年(1183)、義仲は越前国へ逃れた以仁王の子の 北陸宮を保護し、越中の豪族宮崎太郎長康が宮の御座所を造営した。このとき宮崎城 も存在していたといわれているが、裏付けはない。宮崎氏の出自についても不明である。 同年中に義仲が京を制圧すると北陸宮も入京し、再び越中へ下向することはなかったと みられている。 南北朝時代前期、越後守護代長尾景忠が主君上杉憲顕(越後守護/関東管領)の 命を受け、南朝勢力の拠る「越中宮崎要害」を攻めて勝利したことが、『長尾氏系図』に 記されている。遅くともこのときまでには、要害と呼ぶべき城砦が存在していたと推察 される。 戦国時代前半期には、越中国新川郡分郡守護代であった椎名氏の勢力下にあった。 永正十六年(1519)、椎名慶胤は越中・能登守護畠山氏からの独立を図ったが、翌年に 畠山氏および越後守護代長尾為景の攻撃を受けて降伏した。宮崎城は越後との国境の 城であるため長尾勢に攻められた可能性が高いが、詳細は伝わっていない。 永禄十一年(1568)、慶胤の子とされる康胤は、武田信玄の調略に応じて為景の子で ある上杉謙信から離反し、攻められて没落した。宮崎城には、上杉氏重臣柿崎景家が 入ったとされる。 天正十一年(1583)には織田家臣佐々成政によって攻略され、その家臣の丹羽権平 が城将となった。翌十二年(1584)に小牧・長久手の戦いが勃発すると、徳川家康・織田 信雄方についた成政は羽柴秀吉方の上杉景勝の侵攻を受けた。とくに最前線にあたる 宮崎城は猛攻を受け、6日にわたる激戦の末に開城した。このとき、城は当初よく耐えて いたが、城主を恨む農民が水の手を攻城方に教えたために、まもなく落城を余儀なくされ たとする伝承が残る。 翌天正十三年(1585)の富山の役で成政が秀吉に降伏すると、成政には越中東半に あたる新川郡が安堵されたが、景勝配下の将が宮崎城に抑えとして置かれたとされる。 天正十五年(1587)に成政が肥後一国を与えられた後、文禄四年(1595)に新川郡は 前田利家の所領となった。宮崎城には前田家臣の高畠氏や小塚氏が配されたが、江戸 時代に入って境関所が整備されると、慶長十九年(1614)に一国一城令を受けて廃城と なった。 <手記> 宮崎城は日本海にせり出した標高249mの城山山頂にあり、越後から越中に入るには この城を無視することはできません。山裾が海岸まで続いているので、標高=比高という ことになり、かなり高所にある山城といえます。山頂近くまで林道が通じていて駐車場も 完備されているので、車があれば訪城はラクラクです。 城域は城山公園として整備されているものの、戦時中に電波技術研究所が設置され たため、本丸背後の堀切が埋めて均されているなど改変も見られます。公園の入口には トイレがあるのですが、その背後には立派な堀切が残っています。建物裏に回らないと 見られないので、注意しましょう。 本丸の周囲は腰巻石垣で固められているのですが、どうも後世のもののようです。本丸 の一段下は広い帯曲輪状に外郭が巡っていて、小さな八幡宮のあるあたりには、石垣の 矢倉台があったそうです(現存せず)。 本丸から海側へ下ると小さな二の丸があり、そのさらに先には広い三の丸があります。 この三の丸には、土塁を固めていた当時の石垣が残っています。確実といえるほぼ唯一 の石塁ということで、貴重な遺構といえるでしょう。 県内有数規模の山城ということですが、曲輪数はそれほどでもなく、構造も単純です。 山の険を考えればこれで十分だったということでしょうが、そこまで規模が大きいかと言わ れれば、ちょっと疑問な気もします。ただし、城からの眺望は県下有数の見晴らしと言って よいでしょう。 |
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本丸外郭から本丸を望む。 | |
本丸のようす。 | |
本丸外郭のようす。 右手中央の八幡宮が矢倉台跡。 |
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二の丸跡。 | |
三の丸跡。 | |
三の丸の石塁。 | |
同上。 | |
城からの眺望。 左手中央は出城の元屋敷城跡。 右手奥は海岸沿いの宮崎の集落。 |
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埋められた本丸背後の堀切跡。 | |
最後尾と思われるトイレ裏の堀切。 | |
トイレ裏堀切脇の虎口跡。 |