エッゲンベルク城
(Schloss Eggenberg)
 別称  : エッゲンベルク宮殿
 分類  : 平城
 築城者: バルタザール・エッゲンベルガー
 交通  : グラーツ市電Schloss Eggenberg駅徒歩5分      
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           1460~63年の間に、バルタザール・エッゲンベルガーがアルガースドルフ家から土地屋敷を
          購入し、居城として増改築した。エッゲンベルク家は、もともと現在のオーストリア南東端に位置
          するラトガースブルクのワイン商として財を成していたが、バルタザールはシュタイアーマルク公
          でもあった神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の知遇を得てグラーツやライバッハ(リュブリャナ)の
          造幣局長として手腕を発揮し、エッゲンベルガー・ツー・エッゲンベルク家として貴族に列した。
          1470年までに城内の礼拝堂が完成しており、城館の普請も完了していたとみられる。
           1590年代に入り、分家であるエッゲンベルク・ツー・エーレンアウゼン家のルプレヒトがトルコ
          との戦いで活躍した功績により、エッゲンベルク一族はフライヘル(男爵)に昇格した。同家の
          名をさらに高めたのが、バルタザールの曽孫でルプレヒトの従兄弟にあたるハンス・ウルリヒ・
          フォン・エッゲンベルクである。彼はハプスブルク家の宮中顧問官首長および侍従長を務め、
          神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の摂政的な役割を果たして権勢を誇った。
           皇帝の寵愛を受けて帝国諸侯にも列したハンス・ウルリヒは、1625年にエッゲンベルク城の
          大改修に着手した。新しい宮殿の設計構想は宇宙的発想に基づいているとされ、四隅の塔は
          四大元素を表し、窓の数は1年の日数(365)、3階の広間の数は1日の時間(24)、そして広間
          の窓の総数は年間の安息日数(52)に拠るとされる。宮殿は1635年に一応の完成をみたが、
          ハンス・ウルリヒ自身はその前年に死去した。絵画など内装の工事は、さらに1685年ごろまで
          続けられたとされる。
           1717年にヨハン・クリスティアン2世が没すると、エッゲンベルク家の男系は絶え、その姉婿に
          あたるヘルベルシュタイン伯ヨハン・レオポルトがエッゲンベルク城を相続した。ヨハンは1754~
          62年に城をロココ調へと改修し、19世紀には庭園が英国風に改められた。1939年、ヘルベル
          シュタイン家はエッゲンベルク城をシュタイアーマルク州に売却し、城は戦後の修復工事を経て
          1953年から一般に公開されている。
           2006年、宮殿内装の修復に際して東洋趣味の部屋に飾られた絵画が日本のものではないか
          として調査が行われ、豊臣期の大坂城と城下を描いた希少な屏風であることが判明した。元は
          八曲一隻であったとみられ、一扇ずつ分解されて壁画に転用されている。この縁から、今日の
          大阪城とエッゲンベルク城は友好城郭提携を結んでいる。


       <手記>
           エッゲンベルク城はグラーツ市街の西方、盆地を形成する丘陵の麓に位置しています。広大な
          庭園の中心に方形の宮殿が建ち、上から見ると礼拝堂を核として、周囲に建物を巡らしている
          ことが分かります。宮殿は一応空堀に囲まれていますが、少なくともハンス・ウルリヒ以降、城砦
          としては顧みられていなかったでしょう。
           建物の内部は、上述のとおり多くの部屋が整然と並ぶ一般的な宮殿です。そのなかで日本人
          として特筆すべきは、やはり上記の「豊臣期大坂図屏風」でしょう。小部屋に配された屏風絵は、
          室内には立ち入れないうえに照明がないため、快晴の夏の日でも薄暗く、肉眼では細部までは
          見えませんでした。とはいえ、大坂城天守や堀に架かる橋々などは手前側の絵に描かれていた
          ため、言われてみれば大阪だなという市中の賑わいは実感できました。東洋趣味の部屋はもう
          一つあり、そちらは中国風の絵などで飾られているため、こちらは近年「日本の間」と呼ばれて
          いるそうです。
           中世城郭ファンであれば、地階の回廊沿いにある改修前の遺構露出部も、ぜひ見逃さないで
          いただきたいポイントです。壁面に古い城館の柱や基部(当初の城の基壇は今よりも60cmほど
          高かった)、そして建物入口などが残っています。
           ところでエッゲンベルク家は、上述の通りもとは商人でした。第一次ウィーン包囲後に財政難に
          陥ったハプスブルク家を資金・経営面で支え、貴族にまでのし上がったという経緯は、地方領主
          から帝国諸侯にまで昇りつめ、今も裕福な国家元首として続くリヒテンシュタイン家と似たような
          感じを受けます。ただしエッゲンベルク家の栄光は長くは続かず、18世紀前葉には家名が絶えて
          しまいます。そのあたりの経緯も、エッゲンベルク城内で詳しく説明されていました。

           
 庭園から宮殿を望む。 
宮殿を囲う空堀。 
防備用とは思えません。 
 同上。
同上。 
 宮殿全景。
中庭を囲む建物。 
 日本の間と豊臣期大坂図屏風。
豊臣期大坂図屏風をアップで。 
 同上。
同上。 
 旧城館の遺構露出部。
旧城館の柱跡。 
 旧城館の基部。
旧城館の建物正面入口跡。 
 シュロスベルクからエッゲンベルク城を望む。


BACK