ファーナム城 ( Farnham Castle ) |
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別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: ヘンリー・オブ・ブロワ | |
交通 : ファーナム駅徒歩20分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1138年、イングランド王ウィリアム1世(征服王)の孫でウィンチェスター司教のヘンリー・ オブ・ブロワによって築かれた。1155年にイングランド王ヘンリー2世によって一度破城され たものの、12世紀末に再建された。 築城以来800年以上、ファーナム城はウィンチェスター司教の居城であり続けた。有名な 人物としては、ジャンヌ・ダルクの身柄を引き受け、フランスとの百年戦争を終わらせようと 尽力したヘンリー・ボーフォートがいる。 1215年に第一次バロン戦争が勃発すると、翌1216年に反乱諸侯側が擁立したフランス 王太子ルイ(のちのフランス国王ルイ8世)麾下のフランス軍により、ファーナム城はおよそ 10か月にわたって占領された。 1642年に第一次イングランド内戦が始まると、ファーナム城は議会派が保持した。国王 チャールズ1世の地盤であるイングランド西部と、王党派の多い南東部の連絡を遮断する 重要な拠点として機能した。1647年に同内戦が終結すると、翌年にファーナム城は再び 破城となった。 1660年、チャールズ2世が即位してイングランドが王政復古すると、ウィンチェスター司教 ジョージ・モーリーはファーナム城の司教館を再建した。しかし、12世紀来のモット・アンド・ ベイリー形式の主城域は朽ちるに任せていった。 上述の戦争期を除き、築城以来800年以上にわたって、ファーナム城はウィンチェスター 司教の居城であり続けた。有名な城主としては、15世紀にジャンヌ・ダルクの身柄を引き 受け、フランスとの百年戦争を終わらせようと尽力したヘンリー・ボーフォートがいる。 <手記> ファーナム城は、テムズ川の支流ウェイ川の河岸段丘の一角にあります。ファーナムの 市街の背後に建ち、街のシンボルにもなっています。城跡のうち、今の残る司教館は会議 や研修などの会場として利用されていて、自由に立ち入ることはできません。廃墟となって いる主城域は、イングイッシュ・ヘリテージの管理下で一般に公開されている。素晴らしい のは、多くのイングリッシュ・ヘリテージ所属の城館では高額の入城料が必要なのに対し、 ファーナム城跡は無料だということです。だからといって保存や整備が他より甘いということ もありません。代わりに、入口に保存費用を募る集金箱があったので、日本での入城料に 照らして適正と思われる金額を投じてきました。 主城域は丘の周囲を堀と城壁でぐるりと囲んだ典型的なモット・アンド・ベイリー形式で つくられています。最初は中心部に主塔(キープ)があったものの、1155年の時点で取り 壊され、以後再建されることはなかったようです。代わりに、ベイリー(曲輪)周囲の城壁を 高く堅固にし、主城域そのものが円形のキープのようになっています。イングリッシュ・ヘリ テージでの登録名も、正確には「ファーナム・キャッスル・キープ」となっています。 もともとあった丘を利用しているので、外から見ると石造の塔ですが、内部はかなり上部 まで土が詰まっているという特異な形状をしています。そのため、主城域への唯一の入口 は、外からは普通の城門ですが、埋門になっています。 城内は完全に遺跡で、門の城壁にだけ途中まで登れます。ここからの眺望はなかなか で、司教館に隠れてファーナムの街は見えないものの、サリーやハンプシャーの穏やかな 緑の原野を望むことができます。 中心部の旧主塔跡には井戸跡があります。城の存続期間を通じて重要な水源であった もので、今は涸れているもののそこまで見通すことができます。かなりの深さがあり、縦柱 のない木製の階段を伝って途中まで下りられるのですが、なかなかのスリルです。 入城口の外側には資料館もあります。小さいながらも展示はしっかりしていて、こちらも なんと無料です。訪れる人も多くはなく、個人的にとてもおすすめの城跡です。 |
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城内から見た城門。埋門になっています。 | |
井戸。 | |
城壁沿いの櫓の古い石積み。 | |
ぐるっと囲む堀。 | |
城門跡の城壁からの眺望。 | |
城門を外側から見上げる。 | |
城壁を外側から見上げる。 |