マルゲーラ要塞
(Forte Marghera)
 別称  : なし
 分類  : 要塞
 築城者: ハプスブルク帝国
 交通  : Venezia Porto Marghera駅徒歩15分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           1797年のカンポ・フォルミオ条約でヴェネツィア共和国が消滅すると、ヴェネツィア一帯を
          獲得したハプスブルク帝国は1805年、マルゲーラ村の2つの小島を利用して要塞の建設
          を開始した。しかし、同年12月にアウステルリッツの戦いでナポレオンに敗れると、プレス
          ブルクの和約によりヴェネツィアをフランスに割譲した。
           フランスの支配下で要塞の建設が進められたが、1809年にはオーストリア軍が要塞へ
          攻め寄せた。このとき要塞の東側は未完成であったが、オセリーノ運河を利用して周辺の
          土地を水没させ、城兵は要塞を守り切ったとされる。
           1813年にもオーストリアがヴェネツィアを攻撃したが、要塞で撃退に成功した。しかし、
          翌1814年にナポレオンが没落すると、ヴェネツィアはオーストリアに占領された。墺帝国の
          下で、要塞は完成にこぎつけたとされる。1842年にはヴェネツィアへ渡る鉄道が開通した。
          この鉄道は戦時に補給路として機能するよう、要塞の真裏からラグーンへ向かっている。
           1848年、ヨーロッパ各地でウィーン体制に反発する1848年革命が発生し、ヴェネツィア
          でも同年3月にヴェネト共和国(サン・マルコ共和国)が樹立された。6月にはオーストリア
          軍がメストレへ進軍し、共和国軍の拠るマルゲーラ要塞に迫った。しかし、数か月間にらみ
          合いが続き、湿地帯に駐屯するオーストリア兵は質の悪い井戸水やマラリヤに悩まされた
          といわれる。
           10月27日、ヴェネツィア軍は要塞から出撃して野戦に挑み、オーストリア軍をトレヴィーゾ
          まで退かせた(メストレの戦い)。共和国にとって劇的な勝利ではあったが、オーストリア軍
          との圧倒的な戦力差を覆すことはできず、翌年5月までにはメストレを奪い返されている。
          同月27日、共和国軍はマルゲーラ要塞を放棄して破壊した後、ヴェネツィアへと撤退した。
          共和国軍はさらに3か月間持ち堪えたが、ヴェネツィアのラグーンで耐えきることはできず、
          8月22日に降伏を余儀なくされた。
           1866年の普墺戦争の結果、イタリア王国がヴェネト地方を併合すると、マルゲーラ要塞は
          イタリアによって改修・強化された。同時に、攻城戦の進化に伴って新規の要塞が周囲に
          追加され、マルゲーラ要塞は環状要塞網の一端に組み入れられた。
           20世紀に入り、第一次世界大戦が勃発すると、もはや近世要塞は時代遅れであることが
          露呈した。その後も兵舎や火薬庫として使用されたが、防衛拠点として実用視されることは
          なかった。


      <手記>
           マルゲーラ要塞はヴェネツィアへ渡るリベルタ橋の本土側のたもとにあります。なにかの
          紋章のような独特な縄張りが印象的で、稜堡の殆どが大陸側を向いており、ヴェネツィアを
          守るためだけに築かれていることがよく分かります。
           現在は緑豊かな公園となっていて、子供を連れたファミリーが多く訪れていました。兵舎
          らしき建物も2棟ありましたが、私が訪れたときは修復工事中でした。公園化に伴って土塁
          が取り払われている稜堡も見られるものの全体的によく残っていて、ヴェネツィアの美しい
          街並みとの無骨な対比が楽しめる歴史スポットといえます。しかしながら、最寄駅で降りた
          のは私一人でした笑

           
 北端の半月堡。
外郭の稜堡を望む。 
 同上。
外郭の入城口。 
 内郭の稜堡と濠。
同上。 
 同上。
兵舎とみられる修復中の建物。 
 同上。
唯一ヴェネツィア側を向いている半月堡を望む。 
 内郭東辺の入城口。
内郭東辺に突き出た稜堡。 


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