烏特勒支堡(ユトレヒト)
 別称  : なし
 分類  : 要塞
 築城者: オランダ
 交通  : 台南駅からバスに乗り、「安平古堡」
      下車徒歩5分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ゼーランディア城(熱蘭遮城)の支砦であるが、築城の経緯は定かでない。1661年4月に
          台江内海から侵攻した鄭成功率いる2万5千の軍勢は、5月の初旬にはゼーランディア城を
          攻囲した。しかし、力攻めでは容易に落ちないとみた鄭成功は、まもなく兵糧攻めへと切り
          替えた。
           包囲戦は半年以上におよび、この間にオランダからゼーランディア城への援軍も数次に
          わたって送られたが、いずれも鄭軍の艦隊に阻まれて失敗した。城内では食料や真水が
          窮乏し、救援の見込みもおぼつかない状況で士気も低下していった。
           翌1662年1月、ドイツ人傭兵ハンス・ユルゲン・ラディスが城から脱走し、鄭成功に城内の
          窮状を伝えた。さらにラディスは、城の南西に位置するユトレヒト砦の重要性と早期決戦を
          訴えた。同月25日、鄭成功はゼーランディア砦前方に艦船を配備して城兵を引きつけつつ、
          ユトレヒト砦(烏特勒支堡)に猛攻を加えて陥落させた。この戦闘で、鄭軍は1日で2500発
          もの砲弾を撃ち込み、そのうち1700発がユトレヒト砦に向けられたとされる。
           ユトレヒト砦の失陥により城内の士気は完全に崩壊し、ついに守将の台湾行政長官フレ
          デリック・コイエットは同月27日に降伏した。ただし、ラディスの存在はオランダ側の記録に
          しかみられず、戦責を免れるためのコイエットらによる創作とする説もある。
           戦後のユトレヒト砦については定かでない。


       <手記>
           ゼーランディア城跡(安平古堡)の南西に位置するユトレヒト砦跡は、現在は公営墓地と
          なっているようです。今でもわずかに小高い丘となっていますが、当時の地形を留めては
          いないでしょう。墓地前の安平路には、安平古堡と鄭成功の侵攻戦についての相対的な
          説明板があり、ユトレヒト砦の戦いについても触れられています。
           公営墓地といっても、とても乱雑に墓碑が並んでいる感じで、その向こうに台南の高層
          ビル群が建ち並んでいる風景は、なんだかFFかなにかのRPGのムービーに出てきそうな
          構図でした。ちなみに西隣には安平小砲台がありますが、こちらは19世紀の築造なので
          ユトレヒト砦との関連はなさそうです。

  
 ユトレヒト砦(烏特勒支堡)跡現況。
砦跡前の説明板。 
 砦跡の公営墓地と台南のビル群。
 RPGに出てきそうな景色です。
おまけ:砦跡前の道路の側溝板。 
安平城内郭をデザインしているようです。 


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