フランクフルト ( Frankfurt am Main) |
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別称 : フランクフルト・アム・マイン | |
分類 : 都城 | |
築城者: 不明 | |
交通 : フランクフルト中央駅より路面電車 または地下鉄利用。 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> フランクフルトとはフランク人の渡河点という意味で、その名のとおり古代ローマ時代から、 マイン川の渡河点ひいては交通の要衝とみられていた。フランクフルトの町が史料に登場 するのは、8世紀末のことである。794年、カール大帝は「Franconofurd(フランコノフルト)」 で教会会議を召集し、大帝の三男ルートヴィヒ1世はフランクフルトに居館を構えた。 830年代までには、市壁と堀が築かれたとみられている。ルートヴィヒ1世の子ルートヴィヒ 2世は、843年に東フランク王国を興し、フランクフルトはその首府の1つとなった(同王国は、 明確な首都は定められていなかったものと推測されている)。しかし、東フランク王国の系統 がカロリング朝からザクセン朝へ移るなかで、フランクフルトの重要性は低下していった。 12世紀にはじまるシュタウフェン朝のもとでフランクフルトは活気を取り戻し、1180年代ごろ には市域が拡大され、新たな城壁が築かれた。1245年には、帝国自由都市に認定された。 これを受けて、14世紀に入るとフランクフルト市は飛躍的に発展し、さらに市域を外へと広げ た。こうした急速な繁栄は周辺諸領主の嫉みを買い、フェーデと呼ばれる私闘に巻き込まれ るようになった。とりわけ1389年のクローンベルクのフェーデは、大規模な軍事衝突にまで 発展し、これに敗れたフランクフルト市側は多数の捕虜に対する多額の身代金の支払いを 余儀なくされた。 16世紀に入るとフランクフルトは宗教改革の拠点の1つとなったが、続く17世紀の三十年 戦争では一貫して中立を主張した。1756年に勃発した七年戦争では、フランクフルトは一時 フランス軍に占領された。フランス革命戦争さなかの1792年にも、キュスティーヌ伯アダム・ フィリップ率いる革命軍によって制圧された。このときの戦闘は、市街に多大な被害を与えた といわれる。 1806年、フランクフルトはナポレオンによって設立されたライン同盟に参加させられ、帝国 自由都市の地位を失ったが、1815年のウィーン会議によって再び自立した自由都市(神聖 ローマ帝国は消滅していたため)となった。1848年の三月革命に際しては、全ドイツ地域の あり方を考える「フランクフルト国民会議」がこの地で開かれた。そして、現在にいたるまで 金融や交通などの中心地として、ドイツで最も重要な都市のひとつであり続けている。 <手記> フランクフルトという町については、私がここに言葉を連ねる必要はないように思います。 市自体の人口は70万弱程度ですが、都市圏では500万を超えるといわれ、ヨーロッパ有数 の大都市であることは言を待ちません。ドイツでは珍しい高層ビルが林立していることでも 知られる一方、レーマー広場を中心とした旧市街中核部には、中世商業都市の繁栄の面影 を見ることもできます。他方で、都城としての遺構となるとさすがに多くはありません。一応、 近代の稜堡や堀の跡などを、広場や道路としてトレースすることはできます。その途中には、 15世紀に建てられたといわれるエッシェンハイマー塔があります。 ここで、中世の都城跡遺構として見逃してはならないのが、シュタウフェン城壁として残る シュタウフェン朝時代の市壁跡です。地下鉄のコンスターブラーヴァッヘ駅を出てすぐ南側に ひっそりとある、朽ちた遺跡がそれです。アーチを描いた薄い石の壁が、駆け出しのころの フランクフルトの姿を偲ばせます。 ちなみに、正式な市名をフランクフルト・アム・マイン(マイン川に臨むフランクフルト)といい ますが、これは同じドイツ国内のオーデル川沿いにもフランクフルトという町があり、こちらを フランクフルト・アン・デア・オーデルと呼んで区別しているためです。さらにちなみに、表題の 写真は欧州中央銀行が入っているビルです。ユーロショックのおかげで手前のモニュメントも おなじみになりました。 |
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エッシェンハイマー塔。 | |
シュタウフェン城壁。 | |
ハウプトヴァッヘ(主番所)。 17世紀に建てられ、18世紀に改築された市の番所。 現在はカフェレストランです。 |
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おまけ:レーマー広場の旧市庁舎。 |