| フリーゼンベルク城 (Burg Friesenberg) |
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| 別称 : なし | |
| 分類 : 山城(Höhenburg) | |
| 築城者: 不詳 | |
| 交通 : トリームリ駅から徒歩20分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 築城の経緯は明らかでない。1218年に、チューリッヒの聖ペーター教会が保有する財産の 一つとして、「フリーソンブルク(Frisonburch)」があり、このときまでに築かれていたとみられ ている。それ以前から、チューリッヒ南西の防衛ラインの一端が設けられていたとする説も あるが、確証はない。翌1219年にチューリッヒが帝国自由都市に昇格した一方で、市の北西 のアルトブルク城を居城とするレーゲンスベルク男爵家とフリーゼンベルク城との関連も考え られている。 1257年の文書には、ヴィーディコンの荘園代官でチューリッヒの執政官でもあったヤーコプ・ ミュルナーが、騎士ヤコブス・モレンディナリウス・ド・フリーゼンベルクの名で記されており、 新たなフリーゼンベルク城主となったとみられている。しかし、1317年に財産登記簿には既に 「城跡」として記載されており、居住や管理はなされていなかったものと推察される。1321年 時点で、フリーゼンベルクはレーゲンスベルク男爵家およびハプスブルク家の所領となって いた。 ミュルナー家は紋章に水車が描かれている通り、もともとは製粉業者だったとされ、騎士と なって以降は、ハプスブルク家と親密な関係を築いたとされる。1344年、ハプスブルク家は チューリッヒ市長であったヨハネス・ミュルナーを称え、フリーゼンベルクをその証として贈与 した。ヨハネスの子エーベルハルト3世は1382年に没し、傍流のゲッツ3世もハプスブルク家 のオーストリア公レオポルト3世と共に1386年のゼンパッハの戦いで戦死し、ミュルナー家は 無嗣断絶した。 翌1387年、後にチューリッヒのギルドマイスターとなるヨハン・エップリが城跡と敷地を購入し、 1436にはエーテンバッハ修道院が取得した。このときには既に廃墟となっていたとみられる が、廃城の経緯については明らかでない。1902年、城山はチューリッヒ市の所有となった。 1925~30年に発掘調査が行われたが、専門的な手法や手順ではなかったため、かえって 遺構が破壊されたといわれる。修復も想像に基づいて杜撰に実施されたまま、今日に至って いる。 <手記> 麓にチューリッヒの市街地を見渡す比高140mほどの小ピークに築かれた城です。最寄りは 北麓のトリームリ駅か南東麓の市電の終点アルビスギュトリで、どちらから行ってももちょっと したハイキングとなります。城山のすぐ下を作業車くらいなら走れるオフロードが巡っていて、 城の北西側から登山道に入ると、背後の堀切に至ります。堀切は現在の登山道と反対側が 竪堀状になっていて、ヨーロッパに竪堀があったとは耳目にしていないため、あるいは当時の 登城路とも考えられます。 城は至って小規模で、麓のヴィーディコンの監督やチューリッヒに向けたシンボリックな意味 のほかに、戦略的な用途はほとんどなかったのでしょう。戦前の修復が杜撰なのは一目瞭然 で、とくに方形の主塔一辺が、その外側の城壁に合わせて内側に折り曲げられて新造されて おり、塔自体が台形になってしまっているのは不自然極まりないといえます。修復には石膏 ないしコンクリートが使われている感じで、現在の一般の住宅を施工したかのような雰囲気に 城跡を訪れた感慨もやや萎えてしまいます。 城山からのチューリッヒ市街およびチューリッヒ湖の眺めは素晴らしく、城跡への落胆を景色 への感動で補完しつつ下山の途に就きました。 |
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| 背後の堀切。 | |
| 同上。 | |
| 堀切南東側の竪堀状地形。 旧登城路か。 |
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| 堀切から城跡を見上げる。 | |
| 修復された建物跡。 | |
| 説明板。 | |
| 台形に修復されてしまった主塔跡。 | |
| 扇形に修復されてしまった建物跡。 | |
| なぜか部分的に修復されている建物痕跡。 | |
| チューリッヒ湖方面の眺望。 | |
| チューリッヒ市街地の眺望。 | |