布勢天神山城(ふせてんじんやま)
 別称  : 天神山城、布勢城
 分類  : 平山城
 築城者: 山名勝豊か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、井戸跡
 交通  : JR山陰本線鳥取大学前駅徒歩15分


       <沿革>
           江戸時代の地誌『因幡志』によれば、文正元年(1466)に因幡守護・山名勝豊が築き、
          二上山城から守護所を移したとされる。ただし、勝豊は享徳元年(1452)ないし長禄三年
          (1459)に没したとされ、文正元年に因幡守護を務めていたのは伯耆守護・山名教之の
          子・豊氏である。『応仁記』には「布施左衛門佐」の名が見え、これを布勢城主の豊氏と
          する説が有力視されている。
           豊氏の跡は勝豊の子とも豊氏の実子ともいわれる豊時が継いだ。豊時の代には、二度
          にわたり私部城主毛利貞元や若桜城主矢部定利らによる反乱が起こり(毛利次郎の乱)、
          守護による支配は大きく揺らいだ。
           永正九年(1512)に豊時の子・豊重が死去すると、弟の豊頼が跡を継いだが、一説には
          豊頼が豊重を天神山城で殺害したとされる。翌十年(1513)には豊重の子・豊治が数度に
          わたり天神山城へ攻め込み、布勢周辺で合戦に及んでいる。同十二年(1515)までに、
          豊治は豊頼を追い落として因幡守護となった。
           その後、経緯は不明だが享禄五年(1532)までの間に、豊頼の子・誠通が因幡守護と
          なっている(『八上郡弓河内村日月大明神棟札』)。誠通は宗家にあたる但馬守護・山名
          誠豊から偏諱を受けているが、誠豊の跡を継いだ祐豊とは対立し、天文十三年(1544)
          ごろまでには尼子晴久に従属して名を久通と改めた。
           『因幡民談記』によれば、天文十七年(1548)に祐豊が天神山城を急襲して久通を討ち
          取った(申の歳崩れ)。ただし、一次史料からは確認できず、久通の最期については諸説
          あり判然としない。いずれにせよ久通亡き後、祐豊が弟の豊定を跡目に送り込んでいる。
          豊定が永禄三年(1560)に没すると、祐豊の子・棟豊が送られたが、同五年(1562)まで
          に早世したとみられ、豊定の子・豊数が跡を継いだ。
           永禄六年(1563)、鳥取城主武田高信が山名豊弘を擁立して離反した。豊数は鳥取城
          を攻めたが大敗し(湯所口の戦い)、同年十二月には逆に天神山城を攻められ鹿野城へ
          退いた。これ以降、天神山城は史料に現れなくなり、そのまま廃城となったとみられる。
          天正元年(1573)に豊数の弟・豊国が鳥取城に入った際、天神山城の三重の天守を移築
          したともいわれるが、史料上の裏付けはない。


       <手記>
           湖山池東岸の小さな独立丘が、約100年にわたり因幡の守護所であった布勢天神山城
          の跡地です。しばしば「布施」と誤記されるようですが、正しくは「布勢」です。城山の東麓
          には鳥取緑風高校が建ち、北西麓に登城口と説明板が設置されています。車は湖山池
          公園の駐車場に止めるとよいでしょう。
           天神山自体は小規模で、頂部に主郭とみられる広い曲輪や井戸跡があり、さらに頂部
          の詰曲輪があります。詰曲輪南側は堀切状になっていますが、遺構だとしても防御力は
          大して見込めません。天守建築があったとすればこの詰曲輪でしょうが、高層建築の痕跡
          らしきものは見当たりませんでした。主郭北東の登山道沿いには複数の腰曲輪が見受け
          られ、天神山の遺構の残存状況は意外にも悪くないようです。
           他方で、天神山の周囲は公園化や宅地化、学校建設等により大きく地形が埋められて
          います。かつては南の卯山真でも包摂して、総延長2.6kmにも及ぶ湖山池の水を引いた
          外堀が巡らされていたそうです。卯山の麓には舟入の地名があったとされ、湖であるため
          交易とまではいかなくとも、舟運を通じた物流も盛んであったと推察されます。
           とはいえ天神山城のそのものの防衛能力はやはり限定的であり、周囲に数多くの支城
          を配置していたとされていますが、結局は守護所としての政治的な役割がメインであった
          ことは間違いないでしょう。

 湖山池側から天神山を望む。
北西麓の登城口と説明板。 
 北東中腹の腰曲輪群。
同上。 
 同上。
城内最大の曲輪。主郭か。 
 主郭の井戸跡。
主郭から詰曲輪を望む。 
 詰曲輪のようす。
詰曲輪の土塁。 
 詰曲輪南側の堀切状地形。
主郭南側のようす。 


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