| ゲスティング城(Burg Gösting) | |
| 別称 : シュロスベルク城、グラーツ城 | |
| 分類 : 山城(Höhenburg) | |
| 築城者: 不明 | |
| 交通 : グラーツ中央駅からバスに乗り、 「Gösting」下車徒歩15分 |
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| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1042年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が辺境伯ゴットフリート・フォン・ピッテンに城と荘園を 与えたとするのが史料上の初出とされ、経緯は定かでないが11世紀中に築かれたものと考え られている。同世紀の叙任権闘争を通じて、城はケルンテン伯エッペンシュタイン家の所有と なった。1122年にケルンテン公ハインリヒ3世が没すると、トラウンガウ家のシュタイアーマルク 辺境伯オットーカール2世の手に帰した。 1138年には、城伯としてズートガー・フォン・ゲステニツェの名がみられる。1260年にはホイン ブルク家が、14世紀末にはヴィンディシュ=グレーツ家が城伯となった。15世紀には大規模な 拡張工事が始められ、1461年に現在の縄張りが完成したとされる。背景にはオスマン・トルコ の脅威があり、1480年には実際にトルコ軍の攻撃を受けたが、イェルク・ヴァイセネッガーが これを撃退した。 16世紀に入ると城は売買と抵当の歴史を歩むことになるが、一方で対トルコの要塞化も進め られたとされる。1622年には三十年戦争の戦費調達のため、神聖ローマ皇帝フェルディナント 2世がゲスティング城を、ハプスブルク家の宮中顧問官首長として権勢を振るっていたハンス・ ウルリヒ・フォン・エッゲンベルクに売却した。 1680年、シュロスベルクで火災が発生すると、グラーツの火薬庫が一時ゲスティング城内へ 移された。1707年には、アテムス伯イグナーツ・マリアがエッゲンベルク家から城と領地を購入 している。 1723年、落雷により火薬庫が爆発し、主塔や礼拝堂を除く大部分の建物が灰燼に帰した。 アテムス伯は城を再建することなく、山麓にバロック様式の宮殿を造営した。1790年ごろから 残った建物の荒廃が進行し、1843~44年には北辺の城壁が取り崩され、石材が鉄道建設に 用いられた。 1925年にはゲスティング城協会が発足し、大規模な修復が行われた。 <手記> ゲスティングはグラーツ市街北西山沿いの地域で、城はムール川沿いに細く伸びる峰上に 築かれています。一応ピークとはいえ、やや中途半端な位置にあり、要害性の面からみれば もっと先端側の小さな礼拝堂が建つあたりの方が相応しいように感じされます。これは、ゲス ティング城がグラーツ方面だけでなく、ムール川上流方面の監視と交通路掌握を目的として いたからのようです。グラーツ中央駅や旧市街からゲスティング行きのバスに乗って終点で 降りれば、城跡まで一本道の山道が延びています。 2020年まで、城はレストランなどとして利用されていたそうですが、閉店した後に市が借り 上げているそうです。しかしながら、費用面から全体的な修復や保存はなされず、予約制の ツアーでのみ見学可能となっているようです。建物内部はともかく、周辺の曲輪については 公開してくれてもいいのにと思うのですが、個人での訪城は困難でしょう。 城山の前後は堀切だったのかなんとも言えない鞍部で区切られ、背後の鞍部の奥からは 背部の城壁を目の前に望めます。また前方鞍部からは、トップ画像のように建物を見上げる ことができます。城山の背後へ向かう山道の脇には藪に埋もれた堀底道が残り、あるいは 大手道の名残かもしれません。その先にも出入口がありましたが、当然ながら封鎖されて いて、そこから最後に建物を真上に見上げて下山しました。 これだけの遺構、もったいないのでぜひ一般に公開してもらいたいところです。 |
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| シュロスベルクからゲスティング城を望む。 | |
| 背後のようす。 | |
| 背後から城壁を見上げる。 | |
| 背後鞍部を挟んで城内を望む。 | |
| 大手道か。 | |
| 大手道の先から建物を見上げる。 | |