御前原城(ごぜんぱら)
 別称  : 中村城
 分類  : 平城
 築城者: 塩谷氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR東北本線矢板駅からバスに乗り、
      「東町」下車徒歩10分


       <沿革>
           御前原城の築城者については、大きく3つの説がある。1つは、源為義の弟頼純が下野国
          塩谷郡に下って源姓塩谷氏初代となった際、居城としたとする説。2つ目は、嗣子のなかった
          源姓塩谷氏5代朝義の婿養子となった宇都宮成綱の子朝業が、堀江城に代わる居城として
          築いたとする説。そして3つ目は、『日本城郭大系』に拠るところの『塩谷記録』にみられる、
          正和四年(1315)に塩谷頼安が築城したとする説である。
           平成元〜二年(1989〜90)に行われた発掘調査では、1400年前後を中心とし、それ以前
          の遺物は見つかっていないとされる。3説のなかでは正和四年説が最も近いが、それでも
          100年近い差があるほか、塩谷氏の諸系図に塩谷頼安の名はみられない。1400年前後に
          該当する塩谷氏当主としては、盛綱・泰綱・光綱・秋綱・教綱の5代あたりが考えられる。
          とくに教綱は、応永三十年(1423)に主筋の宇都宮持綱を謀殺し、一次的に宇都宮家中の
          実権を握っている。塩谷氏が宇都宮宗家と対立する渦中で築かれたとする見方もできるが、
          確証はない。存続期間についても不明である。


       <手記>
           御前原城は、国道4号バイパスの建設予定地だったところを地元の保存運動により計画
          変更となり、さらに周辺一帯がシャープの工場となるなかでも残った奇跡的な城跡といえる
          しょう。ただし、残ったのは本丸だけで、その他の広大な城域は工場および国道によって
          消滅しています。
           本丸はほぼ正方形をしていて、四周の堀と土塁が一番の見どころです。現在の出入口は
          北側ですが、かつての虎口は西と南に開いていたようです。南口の外側には、もう1つ虎口
          が見られるようですが、夏の盛りでちょっと歩いていくのは困難でした。内部は、スポーツ
          イベントが開かれるほど広大で、中央の地蔵尊付近は池泉庭園跡とのことです。すなわち
          臨時の城砦などではなく、かなりの有力者が居住していたことがうかがえます。私見として
          は、やはり上記のように塩谷氏が宗家と対立するなかで、何らかの理由により新城を築き、
          一次的に拠点を移したのではないかと感じました。

           
 御前原城跡説明板。
北辺の空堀。 
 同上。
土塁の断面。 
 本丸のようす。
 中央が池泉跡の地蔵尊。
地蔵尊と池泉跡。 
 南辺の空堀。
南辺の虎口跡。 


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