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波木井城(はきい) |
| 別称 : 波木井の峯の城 | |
| 分類 : 山城 | |
| 築城者: 波木井実長か | |
| 遺構 : 曲輪跡、土塁、堀跡か | |
| 交通 : 中部横断自動車道身延山ICから車で7分 | |
<沿革> 『甲斐国志』によれば、波木井実長が築いたとされる。実長は甲斐源氏・加賀美遠光の三男・南部 光行の三男で、13世紀前半に波木井郷地頭を父から譲られ波木井氏を称した。文永十一年(1274) には、流罪を解かれた日蓮を迎え入れ、身延山に草庵を結んで庇護している。その身延山を正面に 望む梅平にも、実長の居館跡伝承地があり、波木井城が鎌倉時代から存在していた確証はない。 実長の長男・実継は、南部に復姓して元弘の乱で赤坂城に籠り、落城後に捕えられ斬首された。 波木井氏の家督は四男の長義が継いだとされる一方、実継の子・長継は本家筋とされる又従弟の 南部政行とお互いの姉妹を妻に迎え、政行の子で甥にあたる師行を養子として、波木井南部氏を 継承したともいわれる。師行は南朝に属して、延元三/建武五年(1338)の石津の戦いで討ち死に した。跡を弟の政長が継ぎ、その孫の信光は波木井郷へ戻り、 貞治六/正平二十二年(1367)に 神大和守が波木井城へ攻め寄せたが、撃退した上に大和守の居城を攻め落としたとされる。事実と すれば、波木井城はこのときまでには築かれていたことになる。明徳四年(1393)の明徳の和約で 南北朝が統一されると、信光の跡を継いだ弟の政光は師行の築いた奥州根城へ移り、根城南部氏 および八戸氏の祖となった。 大永元年(1521)、今川氏親の重臣・福島正成が甲斐へ攻め入ると、波木井義実が今川氏に内通 したとして、武田信虎によって「波木井の峯の城」に攻め滅ぼされたと伝わる。波木井南部氏の末裔 を称する市川家の系図によれば、義実は波木井長義から数えて9代目とされるが、根城南部氏との 関係や義実までの波木井郷および波木井城の動向については明らかでない。このとき、武田方は 福島勢に甲府まで攻め込まれており(飯田河原の戦い)、義実が信虎に攻め滅ぼされたとすれば、 今川方の撤退後のことと推測される。同系図によれば、義実の子・実行が市川へ改姓したとあるが、 波木井城は義実の誅殺を以て廃城となったと考えられる。 <手記> 眼下に富士川を望む、身延山南東の支峰上に築かれた山城です。富士川西岸の街道は、波木井 の集落と久遠寺の門前町のどちらを回るルートでも、波木井城付近を経由して北の下山へ向かって いたと推察されます。今でも波木井集落と久遠寺を結ぶ山道が通っており、とても細くて心配になる ものの途中には城址標柱が建ち、そこから歩いて奥へ分け入ると、上に緑点で図示した箇所に石碑 と説明板が設置されています。 さらに道路を上がっていくと、城口や兵衛門といった小字を経て、背後の細尾根に出ます。ここには 堀切が設けられていたと考えるのが自然ですが、取り立てて以降らしき地形は見られません。背後 から城山頂部へ向かうと、横一直線の切岸状の土塁地形があり、『日本城郭大系』によれば土門と 呼ばれる虎口状開口部があったそうですが、今では作業車が入れるように切り広げられています。 城山頂部には墓地や電線鉄塔があり、2段に削平されているもののどこまでが城砦の造作なのか 判断に窮します。北側斜面には規模の大きな横堀状地形や竪土塁を伴う堀底道状地形が見られ、 人工地形であることは間違いないのですが、やはり城の遺構なのかは定かでありません。 波木井城は発展性に乏しい山の上にあり、やはり南北朝の戦乱の中で築かれたとみるのが妥当 と思われます。 |
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| 道路沿いの標柱。 | |
| 城址碑。 | |
| 説明板。 | |
| 城址碑付近からの眺望。 | |
| 小字城口付近のようす。 | |
| 背後尾根のようす。 | |
| 土門脇の切岸状土塁地形。 | |
| 頂部下段の墓地から上段の鉄塔付近を望む。 | |
| 上段から下段の墓地を俯瞰。 | |
| 北側斜面の竪土塁状地形。 | |
| 竪土塁横の堀底道状地形。 | |
| 同じく北側斜面の横堀状地形。 | |