花巻城(はなまき)
 別称  : 鳥谷ヶ崎城
 分類  : 平山城
 築城者: 稗貫氏
 遺構  : 門、曲輪、土塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : JR東北本線花巻駅徒歩15分


       <沿革>
           10世紀の前九年の役における、安倍十二柵の1つ「鶴脛(つるはぎ)の柵」に擬定する
          説もあるが、推論の域を出ない。一般には南北朝時代以降のいずれかの時期に、稗貫
          五十三郷領主稗貫氏によって築かれたとみられている。
           稗貫晴家の代と推定される享禄年間(1528〜32)に、稗貫氏は居城を十八ヶ城から
          鳥谷ヶ崎城に移した。晴家は葛西宗清の子で、稗貫稙重の養嗣子となったといわれる。
          晴家の跡は斯波氏の出身とされる輝時が、次いで跡を和賀義勝の子広忠が継いだ。
          他家からの養子が続いたこともあり、稗貫氏はついに戦国大名への脱皮は果たせな
          かったといわれる。
           天正十八年(1590)、広忠は小田原の役に参陣しなかったため、奥州仕置によって
          改易された。浅野長政が豊臣秀吉の代官として鳥谷ヶ崎城に入り、庶務を済ませた後
          一族の浅野重吉を置いて帰洛した。
           同年十月、旧領回復を図った広忠と実弟の和賀義忠が旧臣らを糾合して一揆を起こ
          した(和賀・稗貫一揆)。一揆勢2千人余は、和賀氏の居城であった二子城を攻め落と
          すと、続いて鳥谷ヶ崎城を包囲した。重吉は数百名の寡兵でよく持ち堪え、南部信直の
          援軍もあって一度は寄せ手を退けたが、本格的な冬の到来を前にこれ以上の籠城は
          は困難として南部領へ撤退した。しかし、翌年に大規模な平定軍が編成されると、一揆
          は鎮圧され義忠は戦死、広忠は逃亡したとされる。
           戦後、和賀・稗貫領は南部家に与えられ、鳥谷ヶ崎城には一門の北秀愛が8千石で
          入城した。秀愛によって、城は大きく改修され、城名も花巻城と改められた。慶長三年
          (1598)に秀愛が死去すると、父親の松斎信愛が城代を引き継いだ。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、伊達政宗に唆された義忠の子忠親が蜂起
          して花巻城を夜襲した(岩崎一揆)。城にはわずかな人数しかいなかったが、信愛以下
          女中に至るまで武器を取って防戦に努めたといわれる。それでも二の丸まで破られ、
          本丸を残すのみとなったが、御台所前御門を挟んで激戦が続き、一揆方はついに攻め
          落とすことができなかった。翌日、南部方の救援が到着すると一揆勢は敗走し、岩崎城
          へ撤退した。この一件により、政宗は徳川家康によるいわゆる「百万石のお墨付き」を
          反故にされている。
           慶長十八年(1613)に信愛が91歳で没すると、南部利直は次男政直を2万石で花巻
          城主に任じた。一国一城令の発布後も、盛岡藩唯一の例外として存続したが、政直が
          寛永元年(1624)に急死して以降は、城代が派遣されて明治維新を迎えた。


       <手記>
           花巻城は、北上川に臨む段丘上の平山城です。段丘は縦に並んだ3つの舌状台地
          から成っていて、稗貫氏時代は、本丸となっている北端の舌状台地を中心とする小城
          であったと推測されます。今に残る南部氏時代の城は、台地の付け根をがっつり水濠
          で断絶し、3つの舌状台地に跨って段丘全体を取り込んだ、規模の大きな近世城郭と
          なっています。
           現状で城跡のようすをはっきりと残しているのは本丸だけで、西御門が復元されて
          いるほか、南辺には堀と激戦の舞台となった御台所前御門跡があります。また、当時
          北上川は本丸の北側直下を流れていたとされ、2度の攻撃に寡兵で耐えた要害性を
          見て取ることもできます。
           二の丸は花巻小学校や武徳殿などになっていて、部分的に土塁跡などが残るのみ
          となっています。その西辺の濁り堀や南辺の薬研堀は低地の駐車場となっていて、
          地形をうかがうことはできるでしょう。
           城域南東隅付近に鎮座する鳥谷ヶ崎神社には、唯一の現存城門である円城寺門が
          移築されています。もとはもと二子城の大手門であったとされ、南辺の円城寺坂上に
          あったものです。門があった場所は三の丸公園として整備されていて、眼下に堀跡や
          城下町の景色も広がるちょっとしたスポットとなっています。また、市役所脇の大手門
          跡には、同じく建築物遺構として市有形文化財に指定されている時鐘楼があります。
           ちなみに、花巻を訪れたらぜひ市街のマルカンビル大食堂にも立ち寄ってみてくだ
          さい。古き佳きデパート最上階のレストランで、とくに十段ソフトクリームが名物です。
          休日ともなると大行列となるので、訪城の際には前後の時間にもいくらか注意を払う
          とよいでしょう。

           
 本丸西御門。
本丸のようす。 
 本丸南辺の御台所前御門跡。
本丸菱櫓跡。 
 本丸井戸跡。
本丸南辺の水濠。 
 二の丸の土塁。
同上。 
 二の丸東御門跡。
二の丸の薬研堀跡。 
 円城寺門。
円城寺門跡。 
 円城寺坂上から堀跡と市街を望む。
三の丸の切岸。 
 大手門跡。
時鐘楼。 
 おまけ:マルカンビル大食堂の名物
 十段ソフトクリーム。箸で食べます。


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