ハノイ城 ( Hanoi Citadel ) |
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別称 : タンロン(昇龍)遺跡、トンキン(東京)城 | |
分類 : 都城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 城門、城壁 | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> 紀元前2世紀の前漢時代に、紅河中下流域に交趾郡が設置されたが、ハノイに都市が 建設されていたかは定かでない。ハノイが明確に史料に登場するのは、唐代の622年に 交州総管府が置かれてからである。681年には六都護府の1つ安南都護府となり、周辺 地域の中心都市としての下地が築かれた。この安南都護府には、遣唐使として日本から 渡海した阿倍仲麻呂が761〜767年の6年間にわたって総督および節度使として赴任して いる。仲麻呂は日本への帰国を果たせないまま、770年に唐で客死した。 唐滅亡後の939年に北ベトナムを勢力圏とする呉朝が成立すると、都はハノイの対岸の コーロア(古螺)に置かれた。続く丁朝と前黎朝はホアルー(華閭)を首都としたが、1009 年に李朝が成立すると、翌1010年に現在のハノイであるタンロン(昇龍)に都を遷した。 1257〜88年の間には3度にわたってモンゴル(元)の攻撃を受け、タンロン城は大きな 打撃を受けた。1288年には元軍が一度はタンロン城を落としたものの、まもなく白藤江の 戦い(バクダンの戦い)で陳興道率いるベトナム陳朝軍に敗れ、撤退した。 その後、幾度かの政権交代があったが、16世紀に鄭氏政権が成立した頃には、ハノイ はトンキン(東京)と呼ばれるようになった。1802年に成立した阮朝は都をフエに移したが、 ハノイは北城総鎮としてベトナム北部を統括する拠点であり続けた。はじめの頃の阮朝は ヨーロッパと是々非々の関係で臨んでおり、1812年にかけてフランス人城塞技師の指導 のもとでタンロン城は近代要塞に改修された。 1831年にハノイ(河内)という名称が初めて用いられた。これは、首都であるフエ(富春) よりも縁起の良い昇龍という名を地方都市が冠していることを嫌ったためといわれる。 19世紀後半に入ると阮朝とフランスの関係は悪化し、フランスは武力によるベトナムの 植民地化に乗り出した。1882年にハノイ城がフランス軍に制圧され、1884年にはベトナム 全土が仏領インドシナとして植民地化された。阮朝は名目上の傀儡君主として存続したが、 ハノイ城の宮殿をはじめとする大部分の建物は取り壊された。 第二次世界大戦が勃発すると、阮朝皇帝保大帝はフランス支配への反発から日本軍に 協力したが、1945年の終戦によって構想は潰え、阮朝も滅亡を迎えた。 <手記> 漢字で「河内」と書くハノイは、その名の通り紅河中流の氾濫原地帯にあり、ハノイ城は 河畔のホアンキーム湖と西湖という2つの池の間あたりに位置しています。その中心部は タンロン遺跡と呼ばれ、世界遺産に登録されています。地表に残っているのは阮朝時代 の1800年代以降の遺構ですが、地下には李朝が1010年に遷都してからの歴代ベトナム 王朝の皇城跡が眠っているという点が評価されたのだそうです。 石塔や宮殿の南門など中心部の遺構は資料館に組み入れられているのですが、私が 訪れた日は不運にも休館日で入れませんでした。同行者に無理をお願いして周囲の通り を歩き、料金不要の北門や若干残る城壁などを見て回りました。 とくに、上の写真の北門は今なお重厚な姿でほぼ完存しており、壁面にはフランス軍の 攻撃による砲弾の着弾痕が残っています。ここを見られただけでも良かったという気分に なりました。 往時のハノイ城は方形の都城形式で、古地図と突き合わせると外郭のラインは今でも 道路としてなぞることができるようです。それによると、西辺はホーチミン廟前の大通り、 東辺は鉄道と並走するPhung Hung通り、南辺はTran Phu通りに北がPhan Dinh Phung となるようです。中国と異なり、タンロンの城壁内に町場はなかったようで、宮城の東側に のびるHang Chieu通りの東端手前に市壁の城門が残っています。ただ、古地図を見ると 都城外には無数の池が散らばっており、阮朝時代の城下についてはそれほど計画的な 都市化は成されていなかったように見受けられます。 |
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北門の砲撃痕。 | |
タンロン遺跡の城壁の一部か。 | |
タンロン遺跡の皇城の城門か。 | |
皇城南門。 | |
ハノイ城の西辺にあたるホーチミン廟前の道。 | |
市の城門。 |