池田城(いけだ)
 別称  : 小浦山城
 分類  : 山城
 築城者: 三善朝宗
 遺構  : 曲輪、堀、井戸跡
 交通  : 七尾氷見道路氷見ICから車で15分


       <沿革>
           応安年間(1368〜75)に、備後国から地頭として赴任した三善石見守朝宗によって築かれた
          とされる。朝宗は鎌倉幕府の問注所執事であった三善康信の後裔を称しているが、越中には
          もともと古代豪族・射水氏の出で、11世紀に主税権助・三善為長の養子となった三善為康が
          おり、その末裔とする説もある。朝宗の子孫は城のある小浦山にちなんで小浦氏を称した。
           7代光康の子・石見守一守は、天正四年(1576)に越中平定へと乗り出した上杉謙信に臣従
          した。しかし、同六年(1578)に謙信が急死して御館の乱が勃発すると、逸早く織田氏に通じた
          といわれる。
           天正十三年(1585)の富山の役に際しては越中国主・佐々成政に従っていたものとみられ、
          前田家臣の奥村家福・千秋範昌が「おこめ市場」を夜襲しており(『温故足徴』)、池田城下の
          「小久米」を指すものと推測されている。成政が豊臣秀吉に降伏すると、一守は城を退去したと
          され、池田城はこのときに廃城となったとみられる。


       <手記>
           池田城は小久米の集落を見下ろす比高50mほどの緩やかな丘の上にあります。東麓の県道
          沿いに標柱が出ていて、主郭まで道が通じているので迷うことはないでしょう。主郭はちょっと
          した公園のように整備されていて、立派な城址碑が建てられています。
           主郭の背後には腰曲輪状の二の郭があり、現地説明板によるとその、北東隅の窪地は井戸
          の跡だということです。二の郭から背後尾根を少し下ると、だいぶ埋まった規模の小さい堀切が
          みられます。
           登城途中にある現地説明板や『日本城郭大系』に示されている城域はおおよそここまでなの
          ですが、主郭の南尾根には腰曲輪状に2段ほどの削平された畑地があります。また、登城路の
          ある東尾根にも2段ほどの腰曲輪状地形と、その脇に竪堀状の谷戸が見受けられます。これら
          も遺構のように思えてならないのですが、いずれも資料にないということは、耕作や公園化に
          よる造作ということなのでしょうか。
           そうなると、有力国人・小浦氏の居城としては逆に小さすぎるような気もします。小久米から西
          へ進むと臼が峰があり、ここは平安時代の越中国司・大伴家持が羽咋の気多神社へ参詣する
          際に通った街道筋とされ、交通の要所であったこともうかがえます。そうなると、私が挙げたよう
          な地形もやはり遺構に含めたほうが自然に思うのです。

           
 池田城跡全景。
県道沿いの標柱。 
 登城途中の説明板。
東尾根の削平地。腰曲輪か。 
 同上。
尾根脇の竪堀にも見える人工地形。 
 主郭の城址碑。
主郭のようす。 
 二の郭。
二の郭の井戸跡とされる窪地。 
 二の郭下から主郭方面を望む。
二の郭背後尾根の堀切跡。 
 主郭南尾根の畑地。
 腰曲輪か。
主城域のひとつ東側下の小ピーク。 
さすがに城域外か。 


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