日ノ出砦(ひので) | |
別称 : 日ノ城、鷹巣城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 日一揆か | |
遺構 : 堀跡、土塁跡 | |
交通 : JR中央本線韮崎駅よりバス。 「絵見堂」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 応永二十七年(1420)、甲斐守護武田信元が死去すると、守護代跡部明海・景家父子が 事実上の守護のごとく権勢をふるった。これに対し、信元の兄信満の次男信長の長男伊豆 千代丸が反発し、跡部氏と抗争状態に陥った。鎌倉府に出仕していた信長も帰国し、さらに 甲斐の国人集団である日一揆もこれに加わった。日ノ出砦は伊豆千代丸方の拠点となった が、このときに築かれたのかどうかは定かでない。 跡部氏は、日一揆と対立していた輪宝一揆と組み、永享五年(1433)に荒川(甲府市)で 合戦に及んだ。この戦いで伊豆千代丸は戦死し、武田方は総崩れとなった。信長は駿河へ 落ち延び、日ノ出砦も陥落したものと思われる。甲斐守護には跡部氏の了解のもと信長の 兄信重が迎え入れられたが、日ノ出砦の処遇については不明である。 天正十年(1582)の天正壬午の乱に際し、日ノ出砦は徳川家康によって取り立てられたと される。同年中に乱が終結すると、砦は役目を終えて廃城となったものと推測される。 <手記> 日ノ出砦は、塩川とその支流三之蔵沢に挟まれた台地の先端に位置しています。城内を 中央自動車道が貫通しており、両サイドは「砦橋」で結ばれています。その東詰に城址碑と 説明板が建てられており、ちょうどこの辺りが本丸とされています。説明板によれば、上の 地図の緑丸で囲んだ台地の範囲がおおよその城域だそうです。ただ、15世紀前半の国人 一揆にしてはさすがに巨大過ぎるように思われるので、徳川氏によって兵の駐屯用に拡張 されたときの最大エリアなのでしょう。おそらく、日一揆のころの城域は石碑周辺が北限と 推測されます。 橋を渡った先端部は、私が訪れたときには見渡す限りの更地になっていました。かつては 塚などがあったようですが、何かの施設でも建つのか平らに均されていて城跡らしい遺物は 見受けられませんでした。 石碑の北には、土塁跡とされる段差と堀跡とされる窪地の農道があります。さらにその北 の崖端にはのろし台とされる一角があるのですが、具体的に遺構なのかどうかは判断でき ません。その他の城内は耕作放棄地や畑地となっています。遺構が残っていそうであまり 残っていないので、なんとも歯痒く感じられました。 |
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塩川越しに日ノ出砦跡を望む。 | |
城址碑。 | |
先端部の状況。 | |
堀跡。 | |
土塁跡。 | |
のろし台と呼ばれる一角。 |