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鵯尾城(ひよどりお) |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田高信 | |
遺構 : 石垣、堀、曲輪 | |
交通 : JR因美線用瀬駅徒歩20分 | |
<沿革> 天文(1532〜55)の初めごろ、山名家臣・武田国信によって築かれたとされる。因幡武田氏は 若狭武田氏の一族と伝えられるが、詳しい系譜や因幡山名氏に仕えた経緯などは不明である。 同十四年(1545)、国信は新たに築いた鳥取城が堅固過ぎたために、主君・山名久通の疑念を 買って謀殺されたとも、但馬の山名祐豊に寝返って翌十五年(1546)の橋津川の戦いで久通を 支援する尼子氏と戦い討ち死にしたともいわれる。 国信の跡を継いだ子の高信は、永禄六年(1563)に鳥取城で祐豊が送り込んだ甥の山名豊数 に叛旗を翻した。同年の湯所口の戦いで山名勢に大勝すると、山名豊弘を因幡守護に擁立して 国内最大勢力にのし上がった。鳥取城を新たな居城とした高信は、鵯尾城に弟の武田又三郎を 入れたとされる。 その後、高信は毛利氏に属して転戦したが、因幡南部の国人層を掌握しきれず、また豊数の 跡を継いだ弟の豊国との戦いも続き、ついに戦国大名への脱皮は果たせなかった。天正元年 (1573)、尼子再興軍が但馬から因幡へ侵攻し、甑山城を拠点として蠢動すると、高信は八月に 甑山城を攻めたものの大敗を喫した(鳥取のたのも崩れ)。 次いで鳥取城を再興軍と結んだ豊国に奪われると、高信は鵯尾城へと退いた。豊国はまもなく 毛利輝元と講和し、毛利氏の尖兵として豊国らと対峙していた高信は立場を失った。天正三年 (1575)五月には毛利氏の検使として伯耆の国人・山田重直が鵯尾城に派遣され、又三郎も この間に没したとされる。一説にはこのときまでに高信も所領を逐われていたといわれ、翌四年 (1576)に豊国から佐貫の大義寺に軍議と称して呼び出され、自害に追い込まれた。高信の子・ 源三郎(助信)は、羽衣石城の南条元続に引き取られたと伝わる。廃城時期は明らかでない。 <手記> 鳥取市街を北東に望む、千代川左岸の山稜地帯の一峰に築かれた山城です。上図のとおり、 南側中腹に林道が通っていますが、こちらからは道がないようで、北東麓の玉津から溜池脇の 谷戸道を辿ると、鳥居の脇に説明板が立っています。車の場合は手前の墓地と獣除けネットの 間に駐車スペースがあります。帰りしな、軽トラでネットを開け閉めして出入りをする地元の方が いたのでお話をうかがうと、年に1、2回城跡と登城路の草刈りをしておられるそうですが、やはり 高齢化で人手が確保しにくくなっているそうです。 登山道は春先でも少々シダ藪となっていますが、鵯尾神社を経由して城域先端の腰曲輪群や 馬場跡に至ります。鵯尾城は2つのピークに跨っており、鳥居脇の案内図によれば前方のピーク が三の丸で、その下に延びるのが馬場跡、本丸との間の鞍部が二の丸跡とされています。本丸 や馬場跡からは眺望が開けており、正面奥に鳥取城跡の久松山が望めます。 さて、鵯尾城は因幡の梟雄といえる武田国信・高信2代の拠点として、個人的に気になる城跡 でした。私のなかでは、とくに高信は宇喜多直家になり損なった謀将というイメージがあります。 逆に、宇喜多氏のように大名化できなかった理由としては、本人の力量云々は度外視するなら、 @父・国信の代に十分に根を張れなかったA古くから土着している南因国人層の支持を得られ なかったBダークホースとして現れた尼子再興軍の存在、などが挙げられるでしょうか。さらに いえば、高信を見捨てたのは小早川隆景とみられていますが、隆景は毛利氏に忠実だった備中 三村氏を切り捨てて攻め滅ぼし、かわりに結んだ直家は後にあっさり織田方へ寝返っています。 同様に、隆景は毛利の尖兵として奮戦していた高信を切って豊国と結んだものの、豊国もまた、 高信を謀殺して間もない頃から織田氏と誼を通じていたといわれています。このあたり、個人的に 小早川隆景という人物には、外交センスや人物眼に欠ける部分があったのかなと感じています。 |
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麓の溜池越しに鵯山城跡を望む。 | |
登山口の鳥居と案内板。 | |
途中の鵯尾神社。 | |
先端尾根の腰曲輪。 | |
同上。 | |
馬場跡。 | |
同上。 | |
馬場跡奥の三の丸下腰曲輪切岸。 | |
三の丸下の腰曲輪。 | |
三の丸跡。 | |
二の丸跡と、奥に本丸跡。 | |
二の丸から三の丸を望む。 | |
本丸跡のようす。 | |
同上。 | |
本丸跡からの眺望。 画面中央奥が久松山(鳥取城跡)。 |