鬼ヶ城(おに)
 別称  : 三里城
 分類  : 平山城
 築城者: 松本氏
 遺構  : 不詳
 交通  : 熊野本宮大社よりバス
      「道の駅奥熊野」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           在地領主松本氏の居城とされる。松本氏の祖は、越後平氏の一族城長茂とされる。長茂は
          正治三年(1201)に鎌倉幕府に対して挙兵し、京の東洞院の小山朝政邸を襲撃した。しかし、
          朝廷の支持を得られなかったため、幕府の追討を受けた。種々の史書では、長茂は吉野で
          殺されたとされるが、松本氏の家伝によれば熊野切原村に逃れ、やがて当地を治めるように
          なったとされる。
           築城は元徳元年(1329)と伝わる。築城者は長茂から5代目の範永ともいわれるが、長茂
          後裔説自体が伝承に過ぎないため、詳細は不明である。『紀伊続風土記』には、「城跡三段
          あり(中略)昔松本源四郎といふ者の居城なり 正慶元年(1332)初めて此辺に関を置きて
          果無往来の旅人を改めて関銭といふを出さしむ 其制永禄年間(1558〜70)にも猶絶さりしと
          見えて 松本氏の文書に見えたり」とある(西暦は筆者付記)。
           天正十三年(1585)、松本家永が城主のときに新宮の堀内氏善に攻められ、鬼ヶ城は落城
          した。家永らは伊勢に逃れたのち、城下に戻って帰農した。家永は、長茂から数えて9代目と
          される。その後、松本家は伏拝村の大庄屋をつとめた。


       <手記>
           鬼ヶ城は、熊野川と三越川の合流点に突き出した小丘の上にあり、西側を除く三方が川に
          削られた急峻な崖となっています。山頂に三里神社が鎮座し、碑や案内などはありません。
           『続風土記』には3段の曲輪から成っていたとありますが、『日本城郭大系』によれば神社が
          建つ前には役場も存在していたということで、城地の地形は大きく改変されているものと考え
          られます。一応、本殿前に1段、手水舎付近に1段、その間に細い帯状の小さな段がひとつ、
          とみることもできるのですが、たしかなことは分かりません。
           城の眼下を、熊野と高野を結ぶ果無街道が走り、城下の三里・萩は周辺でも規模の大きな
          集落です。ここに関所を構えていれば、それなりの収入は見込めたものと推察されます。

           
 鬼ヶ城址を望む(中央の小丘)。
山頂に鎮座する三里神社。 
 一段下の手水舎付近。曲輪跡か。
 奥の鳥居との間にも帯状の段が見えます。


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