池城(いけ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 池頼定か | |
遺構 : 曲輪跡、堀 | |
交通 : 高知市街または後免町駅より土佐電鉄バス十市・後免線 「住吉池前」下車徒歩10分 |
|
<沿革> 十市栗山城主細川定輔(宗桃)の次男頼定は、池城主となり池氏を称した。頼定以前に、 池城ないし池氏が存在していたかどうかは不明である。 北から長宗我部国親の勢力が伸張してくると、宗桃はこれに従ったが、頼定は降ろうと しなかった。これは、池氏家臣に岩松経重という豪勇の将がいたためとされ、国親も経重 のいる間は容易に手を出せなかったといわれる。 天文十六年(1547)、国親の重臣中島親吉は計略によって池氏家臣の池万五郎を内応 させ、これに経重を討たせた。経重を失った池氏は、ついに国親の軍門に降り、頼定の子 頼和と国親の次女を婚姻させることで和議を結んだ。 頼和は、後に豊臣政権下で土佐水軍が建設された際、その中核を担った。天正十八年 (1590)の小田原の役で、戦艦大黒丸を率いて下田城を攻略した船大将池六右衛門は、 池氏の一族とされる。また池氏は、堺や大坂との交易も盛んに行っていたといわれる。 文禄二年(1593)、妻と不和になった頼和は、謀反の疑いありと讒訴され、元親によって 自害を命ぜられた。これによって、池城および池氏の勢力は解体されたものと考えられる。 <手記> 池城は、十市川と住吉池を眼下に望む独立丘を一角に築かれた城です。周囲は360度 穏やかな谷戸田となっていて、当時はかなり生産性の高い集落であったと推察されます。 住吉池と城山の間は県立池公園となっていて、広々とした、周辺の家族連れの絶好の 憩いの場となっています。ただ、肝心の城山には登り口が見当たらず、何の案内もない ため、登頂は断念しました。なので遠くから眺めただけなのですが、池城自体は海とは つながっておらず、いわゆる水軍城の類ではなかったものと思われます。 |
|
池城址遠望。 |