飯久保城(いくぼ)
 別称  : 飯窪城、伊窪城、伊久保城
 分類  : 山城
 築城者: 狩野中務か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、井戸跡
 交通  : JR氷見線氷見駅からバスに乗り、
      「十三中学校前」下車徒歩10分


       <沿革>
           一般に、有力国人・狩野氏の居城とされているが確証はない。『越中志徴』には鞍骨城が
          本城で飯久保は支城とある。越中狩野氏の出自は詳らかでないが、永禄年間(1558〜70)
          には狩野中務丞良政が当地を領していた。
           越中狩野氏は神保氏ついで上杉氏に臣従したとみられているが、動静については不明な
          点が多い。上杉謙信の吏僚として活躍した狩野秀治およびその父とされる狩野秀基は当氏
          の一族といわれるが、系譜は明らかでない。
           天正六年(1578)の御館の乱で上杉氏の影響力が衰えると、いずれかの時期に織田氏へ
          寝返ったとみられる。ただし、秀治は同十二年(1584)ごろまで上杉家臣として活動している。
          本能寺の変後は越中国主・佐々成政に従ったが、同十三年(1585)の富山の役で成政が
          豊臣秀吉に降伏して神通川以西を没収されると、狩野氏も所領を失ったとされ、飯久保城も
          このときに廃されたとみられている。


       <手記>
           飯久保城は仏生寺川沿いに細く伸びる峰の中途に位置しています。地元の人たちが整備
          した散策路があるのですが、私が訪れた時点で主郭のみド藪に埋もれていました。登城口
          は北西麓の飯久保八幡宮脇と、北東麓の竹ドーム入口と書かれたところの2か所あります。
          それぞれ主郭の前方と後方までアクセスできるので、登って下りてを2回すると大方の遺構
          を見学できます。
           前方ルートの一番の見どころは、喰い違いに折れた虎口でしょう。城郭研究家の佐伯哲也
          氏は、「枡形の特性を生かしきっていない」として、狩野氏が独力で構築した未完全な虎口と
          評価しています。たしかに敵兵を包囲して攻撃できるという枡形の利点は発揮できない構造
          ですが、喰い違いを形成する土塁の陰が武者溜りになっているので、戦闘に参加する兵を
          攻城方<守城方にできる点では意味はあるように思いました。
           他方の後方ルートは、主郭背後の大堀切や最後尾の二重堀切が見応えありです。とくに
          主郭の大堀切は、堀底から高々とした切岸に長い階段が架けられていて、『蒲田行進曲』の
          「39段の階段落ち」を見ているかのようでした。階段を登ると主郭内部には入れないものの、
          主郭土塁の上に立つことはできます。

           
 北東から飯久保城跡を望む。
八幡宮脇の登城口。 
 喰い違い虎口。
喰い違いを形成する土塁と武者溜り状空間。 
 堀切跡。
井戸跡。 
 主郭下の曲輪。
北東側登城口を入ったところにある竹ドーム。 
ここは城域外です。 
 最後尾の二重堀切。
二重堀切2条目。 
 同1条目。
主郭背後の小ピークの腰曲輪下段。 
 同じく腰曲輪上段。
主郭背後小ピーク頂部の曲輪。 
 主郭背後の大堀切。切岸を登る階段は
 『蒲田行進曲』を彷彿とさせます笑
主郭土塁上のようす。 
 土塁上から主郭内部を俯瞰。


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