岩村土居(いわむら)
 別称  : 岩村城
 分類  : 平城
 築城者: 不明
 遺構  : 土塁
 交通  : 土佐くろしお鉄道ごめんなはり線立田駅徒歩20分


       <沿革>
           建武三年(1336)、南朝方に属した岩村土居を北朝方が攻撃し焼き払ったことが、『佐伯文書』に
          みられる。その後、北朝の山田氏の支配下に入ったとされる。城主として岩村氏の存在が考えられ
          ているが、詳しいことは分かっていない。
           慶長四年(1599)、長宗我部元親が四男盛親を跡継ぎに定めると、三男津野親忠は岩村に幽閉
          された。このときの幽閉地が、具体的に岩村土居であったのかは詳らかでない。親忠は、翌五年
          (1600)の関ヶ原の戦いで盛親の属した西軍が敗北すると、戦後の仕置きをめぐる混乱のなかで、
          重臣久武親直により自害させられた。親忠は徳川家康と親しかったことから、「親忠が家康に諮り
          土佐半国を得ようと画策している」という親直の讒言を信じた盛親の命によるものといわれている。
          兄を死に追いやったことは、盛親改易の大きな要因となった。
           岩村土居も、この頃までには廃されたと思われる。


       <手記>
           岩村土居は、物部川西岸の田園地帯にあり、現在北辺の土塁が残っています。また、城の南側
          には城八幡が祭られていて、この辺りも遺構の一部であると思われます。
           城の北西には、不遇のうちに死を強いられた津野親忠の遺骸が眠っているとされる津野神社が
          あります。神社そのものは城域ではないようですが、長宗我部氏滅亡にまつわる悲哀の地として
          謹んでお参りしました。ここにある親忠の墓は後世に作られたもので、神社社殿の直下に遺骸が
          そのまま埋葬されたと伝えられているということです。

           
 岩村土居北辺の土塁。
城八幡神社。 
 津野親忠墓(津野神社)。


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