秦泉寺城(じんぜんじ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪跡、堀
 交通  : 高知市街よりバス「桜ヶ丘団地前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           土佐の国人秦泉寺氏の居城である。秦泉寺氏の出自については、一族の吉松氏が清和源氏の後裔と
          称しているが、詳細は不明である。
           戦国時代、秦泉寺掃部茂景ははじめ本山氏に属していた。東から長宗我部国親が勢力を拡大すると、
          茂景は近隣の大高坂氏や国沢氏の援助を受け、国親に抵抗した。弘治二年(1556)、国親は秦泉寺城
          攻略の軍を起こし、茂景はついに降伏した。
           茂景の子豊後守秦惟は、永禄三年(1560)の長浜戸の本の戦いにおいて、初陣の元親に槍の使い方
          を指南したとして知られている。
           いつごろか不明だが、秦泉寺父子は万々城へ移され、秦泉寺城には中島親吉が入った。後に、秦泉寺
          父子は、元親の命を受けた親吉によって誅殺された。周辺領民との領境争いが原因とも、元親への謀反
          を企てたためともいわれるが、その理由は定かでない。
           その後の秦泉寺城については不明である。


       <手記>
           秦泉寺城は、高知市街北隣の山脈の一支峰を利用した城です。支峰といっても、東西は切り立った崖
          となっており、また南北は峰続きではありますが、ほとんど半独立した山といえます。
           現在、西隣して旧土佐山村への幹線道路が走っています。城の南端付近に、落石防止用のフェンスが
          切れて階段が設けられていて、ここから登ることができます。城跡一帯は果樹の畑となっているようです
          が、道はあってないような感じになっています。曲輪は判別しにくいのですが、随所に堀切や竪堀が見ら
          れます。

           
 堀切と竪堀を望む。
堀切道か。 
 二ノ段から詰ノ段を望む。


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