景石城(かげいし)
 別称  : 磯部城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 石垣、堀、曲輪
 交通  : JR因美線用瀬駅徒歩20分


       <沿革>
           『太平記』によれば、延文年間(1356〜61)に赤松氏が攻め落としたが、2〜3年で山名氏に
          奪われたとされる。したがって、このときまでには築かれていたことになるが、築城主など詳細
          は明らかでない。
           戦国時代には山名家臣として用瀬氏があったとされるが、景石城との関係は不明である。
          天正八年(1580)、織田家臣・羽柴秀吉が因幡へ侵攻すると、磯部兵部大輔豊直が景石城主
          に据えられた。豊直は初名を山名康氏といい、因幡山名氏の一族・山名上総介の子で、但馬
          の山名祐豊に引き取られて但馬国朝来郡磯部荘の夜久野城主を務めていた。しかし、豊直が
          若桜を訪れていた隙に、山名豊国が景石城を攻め落とした。
           翌天正九年(1581)、秀吉の兵糧攻めにより鳥取城が陥落すると、豊直は改めて景石城主
          に取り立てられ、智頭郡に3千石を与えられた。豊直は景石城を改修し、用瀬宿を整備したと
          される。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、磯部家は西軍に属したとして改易された。用瀬は若桜
          3万石に封じられた山崎家盛の所領となり、景石城も山崎家の保有となった。廃城時期は定か
          でないが、遅くとも家盛の子・家治が備中成羽藩へ転封となった元和三年(1617)までと推測
          される。


       <手記>
           因幡街道用瀬宿の東側にある尖った山が景石城跡です。用瀬駅から歩いてもさほど遠くは
          なく、また車なら西側中腹の谷筋に駐車場も用意されています。登山道も整備され、本丸から
          の眺望も開けていることから、おそらくハイキングコースとしても親しまれているのでしょう。
           縄張り自体は至って中世的で、尾根筋に曲輪群が連なり、虎口などの工夫もみられません。
          他方で、山頂の本丸を中心に今も石垣が広範囲に残っている点は、一番の特徴といえます。
          とくに本丸下段南西隅の石垣は、算木積みの隅石を伴った立派なもので、3千石の磯部家に
          これだけのものが築けたのかは疑問の余地があります。あるいは、若桜鬼ヶ城と共に山崎家
          によって整備されたとも考えられますが、確証はありません。
           用瀬駅の跨線橋から望むと城山が形良く見え、要衝の山城であったことがうかがえます。

 用瀬駅の跨線橋から城山を望む。
本丸跡をアップで。 
石垣が見えています。 
 登山口。
西尾根先端部の堀切。 
 堀切の先端側のようす。
腰曲輪。 
 三の丸跡。
二の丸跡。 
 本丸下段の石垣。
同上。 
 本丸上段。
本丸上段奥の塚状地形と巨石。 
 本丸背部の石塁。
本丸背後の腰曲輪。 
 本丸南下の虎口曲輪。
虎口曲輪脇の本丸下段南西隅石垣。 
 虎口曲輪から本丸の石垣を見上げる。
本丸下段南西隅石垣を見上げる。 


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