柏原陣屋(かいばら)
 別称  : なし
 分類  : 陣屋
 築城者: 織田信包
 遺構  : 長屋門、御殿
 交通  : JR福知山線柏原駅徒歩7分


       <沿革>
           織田信長の実弟織田信包は、豊臣秀吉の御伽衆となって慶長三年(1598)に柏原3万6千石を
          与えられた。ただし、その役職から鑑みて信包自身は秀吉に近侍していたとみられ、陣屋の前身
          となるような建造物があったか否かは定かでない。信包は同五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍
          に属したものの、所領は安堵された。陣屋が築かれたのはこれ以降のことと推測されるが、正確
          な時期や規模、そもそも現在の陣屋跡と同じ位置であったのかなど、詳細は不明である。信包系
          織田家は、3代信勝が慶安三年(1650)に男子なく没すると無嗣断絶となり、柏原も天領となった。
           元禄八年(1695)、信長の次男信雄の系統である宇陀松山藩主織田信休が、2万石で柏原へ
          移封となり、柏原藩を再興した。信休の父信武は、前年に「宇陀崩れ」と呼ばれるお家騒動を引き
          起こして自らも自害しており、柏原転封は2万8千石から減封されての処罰であった。当初は陣屋
          を持つことも許されず、柏原村内の有力者の屋敷を仮御殿としていたとされる。
           正徳三年(1713)に至って、信休はようやく陣屋の建造を幕府に認められ、翌年に柏原陣屋が
          再興ないし新造された。信休以後、信雄系織田家は10代を数えて明治を迎えた。なお、文政元年
          (1818)には御殿が焼失し、同三年(1820)に再建されている。


       <手記>
           陣屋跡の大部分は市立崇広小学校となっていますが、御殿の一部と長屋門が残っています。
          とくに長屋門は正徳三年の創建当時の建造物だそうで、たいへんに貴重といえます。御殿に方に
          ついては、文政三年に再建されたもので、残存しているのは全体の5分の1程度ということです。
          それでも玄関部分の車寄せとセットというのは、よくできた話のように思います。織田信長の直系
          子孫の藩という点も、他の小藩とまた異なる格式を感じさせます。
           とはいえ江戸中期に成立した陣屋なので、城跡としての見どころは多いとはいえません。歴史的
          建造物をひと通り眺めで、滞在先の篠山へと戻りました。

 柏原陣屋長屋門。
御殿の一部。 
 御殿の車寄せを見上げる。
初代藩主織田信包の像。 


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