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下山城(しもやま) |
| 別称 : 穴山氏館、下山館 | |
| 分類 : 平城 | |
| 築城者: 下山光重 | |
| 遺構 : 堀、土塁 | |
| 交通 : 中部横断自動車道下部温泉早川IC から車で5分 |
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<沿革> 甲斐源氏・加賀美遠光の子・秋山光朝の子ないし孫にあたる小太郎光重が、建仁年間(1201〜 04)に下山へ入植して下山氏を称したとされる。光重の子・兵庫介光基は文応元年(1260)に館の 一隅に平泉寺を建立し、同十一年(1274)に日蓮が身延山に入ると、光基の子・次郎も翌十二年 (1275)に日蓮宗に帰依して身延山に入山した。建治三年(1277)には光基も日蓮の門下となり、 平泉寺を長栄山本国寺と改めて屋敷の敷地を寄進した。その後の下山氏については定かでない。 明徳三年(1392)の明徳の和約で南北朝が統一され、巨摩郡南部の南部政光が奥州へ移ると、 巨摩郡北部の穴山を本貫とする穴山満春ないし穴山信介が河内地方へ進出した。満春は甲斐国 守護職・武田信満の弟で、応永二十四年(1417)に上杉禅秀の乱に加担して兄と共に戦死した。 信介は信満の嫡子・信重の次男で満春の跡を継いだとされるが、宝徳二年(1450)に信介が死去 すると、同年中に満春の子ともいわれる穴山伊豆守が信重を殺害している。したがって、本貫地の 伊豆守と別個に信介が河内領へ入り、兄と共に勢力拡大に努めていたとも考えられる。 信介のころは旧南部領が所領の中心で、下山氏の館跡を居城としたのは信介の子・信懸の代に なってからともいわれる。ただし、信懸の史料上の初出は、文明十六年(1484)に堀越公方・足利 政知の家臣・狩野道一の案内で、義兄弟にあたる甲斐守護・武田信昌の名代として武蔵の称名寺 を参拝したとする、同寺の記録とされる(『鏡心日記』)。信介の嫡子として跡を継いだのであれば、 信介の死から34年も記録に見られないのはやや不自然であり、両者の父子関係にも疑念が持た れるが、確証はない。 信懸もまた、永正十年(1513)に一子・清五郎に暗殺された(『勝山記』)。背景には信懸が駿河の 今川氏と懇意にしていたことがあるともいわれるが、詳細は不明である。跡を清五郎の兄弟である 信風(信綱)が継いだが、清五郎のその後は定かでない。信風もまた自立性が高く信昌の孫・信虎 とはしばしば対立したとみられている。享禄四年(1531)に起きた河原辺の戦いと同日に没している ため、信虎と反乱軍が衝突したこの合戦で討ち死にしたと推測されている。この戦いには、下山の 北隣の飯富を領する飯富虎昌も反乱軍方として参戦している。 信風の子・信友は、信虎と和睦してその次女を正室に迎えた。彼女は下山御南殿と呼ばれている ことから、遅くとも信友の代には下山城が河内穴山氏の居城であったと考えられる。その後、信虎は 今川氏と同盟を結び、信友は信虎の嫡子・晴信(信玄)の義兄にあたることから、穴山氏は武田氏の 外戚として安定した勢力と自立性を確保できるようになった。梅雪斎不白の号で知られる信友の子・ 信君もまた信玄の次女を妻とし、信玄の甥にして娘婿という一門衆でもとくに有力な地位にあった。 信君は信玄の跡を継いだ武田勝頼とは折り合いが悪く、天正十年(1582)に織田信長が武田攻め を敢行すると、徳川家康の調略を受けて内応した。まもなく武田家が滅ぶと、河内領と駿河江尻領を 安堵されている。しかし、同年に本能寺の変が起こると、家康らと共に堺を見物していた信君は家康 一行と離れて本領への帰還を図ったものの、宇治田原で一揆の襲撃を受けて落命した。 後にはわずか10代の信君の嫡子・勝千代が残り、家康の庇護のもとで家督を継いだ。しかし、実際 には家康が穴山衆を家臣化した形となり、天正十五年(1587)に勝千代が早世すると、穴山家は取り 潰しとなった。これを以て、下山城は廃城となったとみられるが、確証はない。信君は秋山虎康の女 を養女として家康に嫁がせており(下山殿)、彼女が同十一年(1583)に出産した万千代は、勝千代 の名跡を継いで武田信義(信吉)を称した。下山城は信義の持ち城として、同十八年(1590)に家康 が関東へ移封されるまで存続したとも考えられる。 <手記> 武田家滅亡の要因の一つとなったことで有名な穴山梅雪の居城です。今は本国寺の立派な境内と なり、山門脇に石碑や説明板が建っています。古絵図によると、二重の土塁で囲まれていたようです が、とりたてて要害性は認められません。下山「城」というよりは、鎌倉時代の武士の居館をそのまま 拡張した広大な館城だったのでしょう。 説明板には保育園の東側に堀や土塁の一部が残っているとあり、当該の箇所にはたしかに堀跡状 地形がみられ、その南側は鉤字に折れていました。遺構とすれば貴重かつ立派なもので、梅雪ないし 勝千代時代に改修されていたものと推察されます。 同じく勝頼を裏切ってトドメを刺した小山田信茂でさえ地元では「郡内を兵火から救った」と好意的に 評価されているにもかかわらず、梅雪はとかく印象を好転させる要素に乏しく、現地でもとくに言及すら されていません。身延山がすぐ近くなので、そちらに話題がかっさられているのかもしれませんが^^; |
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| 下山城跡に建つ本国寺。 | |
| 山門脇の城址碑。 | |
| 同じく説明板。 | |
| 幼稚園東側の堀跡および土塁。 | |
| 堀および土塁の鉤字の屈曲部。 | |