<沿革>
武田信虎の弟信友によって峡東(甲府盆地東部)の押さえとして築かれたとみられている。
ただし、正確な築城年は不明である。信友は勝沼氏を称したが、天文四年(1535)に北条氏綱
との戦いで戦死し、嫡男信元が跡を継いだ。
信元は武田氏の一門衆として軍事面で重職にあったようだが、永禄三年(1560)に謀反の文
が露見したとして甥晴信(信玄)に誅討された。その後、勝沼氏の勢力は解体されたが、廃城
時期は不明である。
勝沼氏館は、昭和四十八〜五十二年(1973〜77)にかけて、ワインセンターの建設に伴う
発掘調査が7次にわたって行われ、中世城館跡としては稀有なほど全容の解明が進んでいる。
その結果は貴重な先例として注目され、国の史跡にも指定された。そのため、ワインセンター
の建設位置をずらして全面保存することになった。
調査は内郭のみならず、外郭やその周囲の一部にまで及んだ。それによって、勝沼氏館が
おおよそ3期に分けて修改築されていたたことが明らかになった。
<手記>
勝沼氏館は、地図を広げればすぐに分かるとおり、笹子峠を越えた甲州街道が甲府盆地へ
抜ける喉元を押さえ、また御坂峠から雁坂峠へ至る鎌倉脇往還が眼下を縦走する要衝に位置
しています。内郭部は南と西を日川の崖に囲まれ、北と東を土塁と空堀で固めており、西方へ
の眺望に優れています。
前述の通りその保存状況は大変素晴らしく、中世初期の城館遺構としていかに貴重である
かが容易に伺えます。特筆すべきは水系と外郭部の調査結果です。勝沼氏館には井戸がなく、
山から引いた水をはるばる水路を通して城内に呼び込んでいたそうで内郭部にはその水路や
水溜が復元されています。
また、外郭部には沈殿槽式の浄水施設と、家臣の住居が復元されています。内郭部からは
少し離れた所にあるので訪れる際には注意深く歩いてください。
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