旗後砲台(きご) | |
別称 : 旗后砲台 | |
分類 : 砲台 | |
築城者: 清朝 | |
交通 : 旗津フェリーターミナルから徒歩15分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1683年に鄭氏政権が清朝に降伏すると、旗後には100名の兵士が配置された。1720年 編纂の『鳳山県志』によれば、このときまでに中国式の大砲6門を擁する砲台が築かれて いた。1840年のアヘン戦争に際し、清朝は旗後の砲台を強化したとされる。 1874年に日本が台湾出兵を行うと、清朝は台湾防衛の必要性を認め、イギリス人技師・ J.W.ハーウッドを招聘して打狗港防衛の要塞整備に乗り出した。欣差大臣・沈葆楨は旗後 を4門の砲座をもつ砲台に増強した。 1895年に台湾が日本へ割譲されると、反対する勢力が台湾民主国を自称して抵抗した。 下関条約に先立つ同年2月1日、旗後砲台で約1トンもの火薬が爆発し、100名ほどの兵士 が死亡している。10月15日、日本艦隊が打狗港へ進軍し、砲撃によって城門に揮毫された 「威震天南」のうち威震の2文字が損傷した。このとき司令官の劉成良は既に安平(台南) へ向かっており、指揮官を欠く砲台ではわずか5発が応射されたのみで、砲台はその日の 午後に占領された。 日本統治時代には大砲は撤去され、太平洋戦争中には高射砲台として利用された。 <手記> 高雄の由来となった打狗(ターカウ)の湾口を挟み込む左右の丘陵のうち、南側の旗後山 に築かれた砲台です。最終的には太平洋戦争中に改修されているため、砲台内部はほぼ コンクリートのように見えますが、北辺などは清朝時代の石造部分が残っているようです。 また、北東隅の城門は中国式のまま残されており、上述の2文字が欠けた扁額もそのまま でした。全体的には太平洋戦争時代の遺物という感じですが、こうしてところどころ清朝の ころの名残も見受けられるので、探しながら歩くのが楽しいかと思います。 |
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旗津の浜から旗後砲台を望む。 右手に城門が見えます。 |
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「威震天南」の扁額をもつ城門。 | |
砲台現況。 | |
同上。 | |
同上。レンガ部分は清朝時代の遺構。 | |
北西隅のようす。 清朝時代の遺構か。 |