三枝氏館(さえぐさし) | |
別称 : 三枝土佐守屋敷 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 三枝虎吉か | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR身延線小井川駅よりバス 「中央市役所豊富庁舎」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 三枝土佐守虎吉の屋敷跡と伝わる。三枝氏は大和朝廷から派遣された古代官人 として知られる名族であるが、宗家は鎌倉時代末期に没落した。虎吉の父守綱は、 三枝氏庶流とされる石原守種の次男で、武田信虎の命により三枝氏宗家の名跡を 継承したといわれる。 館跡近くにある三星院は、もとは三枝院といい、虎吉によって大鳥居字吉久入に 建立されたのがはじまりと伝わる。したがって、三枝氏は木原から大鳥居、関原に かけての一帯を領していたものと推測される。 虎吉の嫡男勘解由守友は、後世に武田二十四将に数えられている。現存の文書 からは昌貞が諱とされ、武田氏重臣山県昌景の娘婿ないし族子といわれる。実際、 守友が山県姓で発給した文書も残っているが、山県氏との関係はいまだ明らかで ない。虎吉の子には、他にも古代三枝氏の通字「守」を用いている者がいるため、 守友と昌貞のどちらも名乗っていたことがある可能性はあると思われる。 天正三年(1575)の長篠の戦いで守友は討ち死にしたが、守友の子守吉はまだ 幼かったため、守友の父虎吉や弟昌吉(守勝)が家督名代となった。 天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して、三枝氏は徳川家康にしたがった。 とくに虎吉は、徳川氏が甲斐を治めるにあたって実務を担当した徳川四奉行の1人 に選ばれている。虎吉死後の天正十八年(1590)、徳川氏は関東へ移封となり、 三枝一族も甲斐を去った。これにより、三枝氏館も廃されたものと推測される。 <手記> 三枝氏館は、北に向かって突き出た低くて細い高まりの先端にあります。周囲を 丘陵に囲まれた小盆地地形の中心に位置しています。 かつては、丘の付け根の堀切跡や虎口跡などが残っていたようですが、現在は 西麓を新道が走り、郭内も住宅地となっています。城址碑や小祠もあるようですが、 その目の前に家屋が建ってしまい、今では碑文を読むこともできなくなっているそう です。 唯一はっきりとした遺構といえるのは、丘の東麓に広がる堀跡とされる低地の畑 です。この畑地はかなり幅があり、脇には小さな用水川が流れています。木原は、 残念ながらお世辞にも水利に恵まれた土地とは言い難く、用水川も近年に設けら れたもののように見受けられます。『日本城郭大系』によれば、往時水源は湧水に 頼っていたそうで、この堀は溜池代わりにも使われていたのではないかな、と推測 されます。 『大系』では、三枝氏館がただの居屋敷ではなかった可能性を示唆していますが、 私も同じような感想を抱きました。三枝氏の所領が上述の通り木原・大鳥居・関原 にまたがっていたとすると、地勢上木原はこの3つの地域でもっとも重要性が低い ように思われます。水利・発展性・交通と、どれをとっても浅利川流域に居館を築く のがベストであると感じられるのです。したがって、木原の館については出先機関 ないし分家の拠点とみた方が妥当なのではないかと考えています。 |
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三星院門前から三枝氏館跡を望む。 | |
堀跡越しに館跡を望む。 | |
木原郷の風景。 中央の雑木林付近が館跡。 |