今石城(いまいし)
付 石坂城・梅の木口砦
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 合志氏
 遺構  : なし
 交通  : JR豊肥本線三里木駅徒歩10分


       <沿革>
           肥後国人で竹迫城主の合志氏によって、南方に対する備えとして築かれたと
          されるが、詳しい築城年代は定かでない。
           天正十二年(1584)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が横死すると、合志親為ら
          肥後国人の多くが薩摩の島津氏に降った。しかし、翌十三年(1585)には親為
          の嫡男高重(隆重)が、高森城の高森惟居や津森城の光永宗甫らとともに、
          島津氏に反旗を翻した。
           同年九月、合志家臣石原狩野介吉利の守る今石城に、島津氏の大軍が攻め
          寄せた。一進一退の激戦が繰り広げられたといわれるが、衆寡敵せず今石城
          は落城し、吉利も壮烈な討ち死にを遂げたとされる。竹迫城も間もなく開城し、
          国人勢力としての合志氏は滅亡した。これにより今石城も廃されたと思われる
          が、詳細は不明である。

          
       <手記>
           阿蘇と熊本市街の間の白川北岸に数kmに及ぶ切り立った河岸が横たわり、
          今石城はその中途にあったとされています。今石神社の上付近が城跡とされ
          ていますが、台地上はきれいに宅地化されていて、どの辺にどの程度の規模
          の城があったのか見当もつきません。崖下の神社参道口に、説明板が設置
          されています。
           説明板によれば、今石城の西300mほどのところに石坂城が、南400mほど
          の白川屈曲部に梅の木口砦があったそうです。前者は河岸上の送電鉄塔が
          立っているあたり、後者は川底およびみらい大橋の橋脚下になっているもの
          とみられ、やはりどちらも痕跡は湮滅してしまっているようです。
           地勢的には、合志氏の居城竹迫城の真南に位置しているのが特徴です。
          したがって、合志氏にとっては最終防衛ラインとして重要ですが、それ以外の
          勢力にとってはさして利用価値はない城といえると思います。

           
 今石神社。
鳥居脇の説明板。 
 崖上の城址比定地現況。
石坂城跡と推察される付近のようす。 


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