| コペル(Koper) | |
| 別称 : ユスティノポリス、カポディストリア | |
| 分類 : 都城 | |
| 築城者: ローマ人 | |
| 交通 : トリエステ中央駅からバスに乗り「Koper」下車 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 6世紀末にアヴァール人やスラヴ人が侵入するようになると、イストリア半島のローマ人は 防御に適した地形への集住を余儀なくされた。コペルは、もともとはギリシャ語でアイギダと 呼ばれる小島であったが、568年に現在のトリエステの住民が逃がれ来て集落を建設し、 ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世にちなんでユスティノポリスと名付けたとされる。 8世紀までには司教区が置かれたとされ、併せて都城も形成されていたものとみられる。 932年にはヴェネツィア共和国との間に防衛協定が結ばれ、その保護下に入った。しかし、 11世紀前半のヴェネツィアと神聖ローマ帝国との争いではドイツ側に属し、1035年に皇帝 コンラート2世から都市権を与えられている。 1278年、ヴェネツィア共和国がユスティノポリスを獲得し、1420年にはアクイレイア総主教 からイストリア半島の領土を譲り受けた。ユスティノポリスはヴェネツィア領イストリアの主都 となり、「イストリアの首都」を意味するラテン語の「Caput Histriae」と改名された。これが、 今日のイタリア語名の「カポディストリア」の由来であり、コペルの語源である。 その後コペルは交易都市として大きく発展し、人口は1万2千人近くまで増大した。この間、 近世の砲撃戦に対応した城壁や稜堡が築かれた一方で、16世紀以降の度重なるペスト 流行により街は深刻な打撃を受け、人口が一時1800人まで激減したといわれる。 18世紀に入ると、コペルは隣接するオーストリアの港湾都市トリエステに押され、衰退の 一途を辿った。1797年にはヴェネツィア共和国が解体され、イストリアはハプスブルク家の 手に渡った。しかし、トリエステの陰に隠れて昔日の勢いを取り戻すことはなかった。 <手記> スロベニアにはイストリア半島北端のわずかな距離しか海岸線がなく、そこにはコペルと イゾラ、そしてピランの3つの港湾都市が並んでいます。このうちピランとイゾラはリゾートの 港町として観光客が訪れていますが、コペルは今日では、同国唯一の商業港として発展 しています。元は島だったということで、かつては入り江か浜辺だっただろう駅と旧市街の 間には、巨大な商業施設が建ち並び、直線的な道路と共に広漠とした印象を覚えました。 旧市街はよく残っており、込み入った家々や細く入り組んだ路地に港町らしい雰囲気を 留めています。他方で都城の遺構はほとんど失われており、広大な近代街区の向こうに 伝統的な街並みが突如現れるという、他ではなかなか目にしない光景となっています。 近代街区に面した南辺には、城門で唯一残っているというムダ門があります。 北辺には、希少な遺構として1554年に築かれたというベルヴェダー堡塁が残っていて、 市民の憩いの場となっているようでした。堡塁の眼前は、これまた商業港のコンテナ埠頭 が広がっていて、これまた歴史ある旧市街とのコントラストがとても珍しく感じられました。 第二次世界大戦まで、コペルの住人の多くはイタリア系だったそうです。しかし、戦後に ユーゴスラビアへ編入されると、ほとんどのイタリア系住民は本国へ避難したそうです。 未回収のイタリアとされながら古くからオーストリア領だったトリエステが伊領となり、逆に イタリア系が多く住んでいたコペルが改修されずじまいというのは、なんとも歴史の皮肉を 感じます。 余談ですがコロナ禍の前だったか後だったか、トリエステより港湾使用料の安いコペル が貿易拠点として注目されているという記事を読んだことがあります。それでもってこの街 の名前を憶えていたんですが、今はどうなっているのか、訪れた雰囲気だけではなんとも 分かりませんでした。 |
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| ベルヴェダー堡塁。 | |
| 堡塁上のようす。 | |
| 堡塁上からの眺望。 旧市街の眼前にコンテナ港が広がっています。 |
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| 堡塁脇の城壁。 | |
| 旧市街中心のチトー広場。 名前の由来は旧ユーゴ大統領のチトー元帥だそうです。 |
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| 旧市街南辺のムダ門。 | |