徳善城(とくぜ)
 別称  : 公文城
 分類  : 平城
 築城者: 公文重忠
 遺構  : なし
 交通  : 土佐くろしお鉄道ごめんなはり線香我美駅徒歩20分


       <沿革>
           徳善城は公文氏の居城である。戦国期に武勇で聞こえた公文将監重忠が有名である。
          重忠は石谷重信の子であったが、公文正信の養子となって家督を継いだといわれる(異説
          あり)。
           天文十六年(1547)、介良城主横山九郎兵衛と下田城主下田駿河守が長宗我部国親と
          対峙したとき、重忠は横山・下田両氏に味方して出陣した。しかし、増水した物部川の渡河
          にてこずっているうちに戦闘が終了したため、重忠は徳善城へ退却した。その後、まもなく
          下田・横山両氏が国親の軍門に降り、重忠もこれに続いて降伏した。
           重忠は、正月の餅つきができないほど貧しく、徳善城下ではそれがそのまま慣習となった
          といわれる。
           現地の案内板によれば、慶長五年(1600)に山内一豊が入国すると、公文氏は百姓並の
          郷士となった。ちなみに、公文式の考案者である公文公は、この公文氏の末裔である。


       <手記>
           徳善城は、香長平野の東端、こどもの森のある山脈の西の裾を利用して築かれた城です。
          一応周囲との比高差はあるのですが、要害性を認められるほどのものではなく、眺めの利く
          土居構えの館城だったと推測されます。
           現在、整備された県道の脇に案内板が設置され、城八幡と思われる祠が祭られています。
          遺構らしきものはとくに見受けられません。
           自分も子供のころ公文式にお世話になったクチですので、そのおおもとはここにあったのか、
          と不思議な感慨に浸ってしまいました。

           


徳善城址現況。


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