国弘城(くにひろ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 細川弘氏
 遺構  : なし
 交通  : 琴電長尾線長尾駅またはJR高徳線讃岐津田駅
      からバスに乗り、「布勢」下車徒歩5分


       <沿革>
           応永年間(1394〜1428)に、石田の領主細川掃部助弘氏によって築かれたとされる。
          江戸時代後期編纂の『全讃史』によれば、弘氏の8代子孫にあたる国弘は、並外れた
          膂力をもち、弓に優れて豊臣秀吉に仕え、城邑を保ったとされる。また、同書には慶長
          二十年(1615)の大坂夏の陣で敗れた真田信繁(幸村)が、戦死せず国弘に匿われ、
          この地で子(之親)をもうけたとする伝承を載せている。


       <手記>
           さんがわ自動車学校の西隣の民家付近が国弘城跡とされ、遺構はみられないものの
          東側に対して一段高い地形になっています。民家の北側奥の建物脇に石碑が建って
          いるのですが、道路からこれを視認するのがなかなかに大変です。見つけたとしても、
          そこまでの道などはとくになく、冬枯れの雑草を踏み分けてなんとか辿り着きました。
           国弘城を巡っては、いくつか疑問が残ります。1つはその城名で、ふつうに考えれば
          細川国弘にちなんでいると思われるのですが、そうするとそれまでの7代の間はなんと
          呼ばれていたのか気になりますが、さしあたって別名などはないようです。また、城主
          細川氏についても、国弘の力自慢の伝承などはいろいろあるようなのですが、一方で
          一次史料にはみられず、実在したのか疑う価値はあるように思います。寒川氏と安富
          氏が幾度となく衝突を繰り返したこの地で、のほほんと独立性を保っていられるものか、
          個人的に違和感を覚えます。

           
 国弘城址碑を望む(分かりますか?)。
近づいてみました。 
 周辺のようす。


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