倉吉陣屋(くらよし)
 別称  : なし
 分類  : 陣屋
 築城者: 荒尾嵩就
 遺構  : なし
 交通  : JR山陰本線倉吉駅からバスに乗り、
      「新町」下車徒歩5分


       <沿革>
           鳥取藩主池田光政と入れ替わりで岡山藩主池田光仲が鳥取32万石に封じられると、家老の
          荒尾嵩就に倉吉8千石が与えられた。嵩就は打吹山の北麓に陣屋を構え、城下町を整備した。
          光政の治世下では伊木忠貞が倉吉を領していたが、居館がどこに置かれていたのかは定かで
          ない。
           倉吉荒尾家は最終的に1万2千石を領し、米子荒尾家など他の4家と共にある程度の独立した
          施政権をもつ「自分手政治」を許された。その後、10代を経て明治維新を迎えている。


       <手記>
           倉吉陣屋跡は打吹小学校となり、遺構はなく、北東隅に説明板が建てられているのみです。
          打吹小学校といえば、もとは倉吉市立成徳小学校という名称でしたが、灘手小学校と統合した
          際に新名称を公募したものの、1位だった「打吹」ではなく、何かの力でたった1票の「至誠」が
          選出され、市民の大きな反発を招いて紆余曲折の末に現校名に決定したという経緯が話題と
          なりました。陣屋跡云々よりも、そんな騒動の舞台がここかぁ〜という感慨にしばし浸ってしまい
          ました笑

 陣屋跡説明板。
陣屋跡の打吹小学校。 
至誠小学校にならなくて良かったですねw 
 説明板付近から打吹山を仰ぐ。
おまけ:倉吉白壁土蔵群 
 同上。


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