栗本城(くりもと)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 一条兼定か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : くろしお鉄道宿毛線具同駅徒歩20分


       <沿革>
           天正二年(1574)に長宗我部元親によって土佐中村を逐われた一条兼定は、妻の
          の実家の大友氏のもとに身を寄せていたが、翌三年(1575)に再起を図って土佐に
          上陸した。旧臣を糾合して3500の兵を集めると、栗本城を築き、四万十川に乱杭を
          打って決戦に備えたとされる。
           一条勢は中村を襲撃して元親の弟吉良親貞を逢坂峠まで退かせたが、3日後に
          元親が7300の兵を率いて後詰に現れると、栗本城に戻って迎撃の構えをみせた。
          いわゆる四万十川の戦い(渡川の戦い)で大敗した兼定は、伊予宇和沖の戸島に
          隠遁した。その後の栗本城については不明である。


       <手記>
           栗本城跡には具同配水池が建設されていて、そのための車道が山上まで通じて
          います。配水池脇に説明板が設置されていて、一見すると気づきにくいのですが、
          説明板の裏側には縄張り図もあります。
           配水池建設に先立って発掘調査が行われたようで、掘立柱建物の柱穴や古銭、
          青磁茶碗などが見つかっているそうです。一般には四万十川の戦いに臨んで築か
          れた陣城のようにいわれていますが、比較的短期決戦だった同戦いで新規に築城
          したにしては生活遺物が多いように思われます。なので、あるいはもともと存在した
          城館を取り立てたものとも考えられます。
           本丸部分はジャングル化していて、とても寄り付けそうにありません。西下の曲輪
          から切岸の向こうにうっすら堀跡をうかがうくらいです。本丸南東下に回ると、堀切の
          痕跡がみられ、その先の尾根には数段の墓地が並んでいます。段曲輪のようにも
          見えますが、表面観察では判別不能です。

 栗本城址遠望。
説明板。 
 本丸の切岸。
本丸南東下の堀切跡。 
 堀切跡の先の墓地群。
 段曲輪跡か。
本丸西下の帯曲輪。 


BACK