ルクセンブルク城 (Luxembourg) |
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別称 : ボック城、リュッツェルブルク城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: ジークフリート1世 | |
交通 : ルクセンブルク中央駅より徒歩15分 | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> 963年、トリーアの聖マクシミン修道院との取り決めにより、ジークフリート1世がこの地を獲得し、 「ボックの岩山(Bockfelsen)」に城を築いた。ジークフリートは、ロートリンゲン宮中伯ヴィーゲリヒの 子といわれ、ルクセンブルク建設の祖としてなかば伝説化している。ボックの城は「小さな城塞」と いう意味の「Lucilinburhuc」と名付けられ、これがルクセンブルクの語源とされている。 ボック城の西側では2つのローマ街道が交差し、そこに市が設けられ、町としてのルクセンブルク も発達した。10世紀ごろから城壁の建設がはじまり、12世紀末には現在のオーバーシュタットまで が要塞化された。 11世紀末ごろに城は整備され、領主家の修道院や学校などが建設された。これらの施設の建設 に関する公文書に初めてルクセンブルク家の公印が認められ、このころまでにルクセンブルク家が 成立したものとみられている。 1354年、ルクセンブルク家は伯爵から公爵へと昇格した。1443年、ルクセンブルクはブルゴーニュ 公フィリップ3世(善良公)によって征服され、ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントに併合された。その 後はスペイン領ネーデルラント、次いでオーストリア領ネーデルラントの一部となった。 16世紀から、ルクセンブルク城の地下に坑道が張り巡らされるようになり、その総延長は23qにも 及んだ。ルクセンブルクはヨーロッパで最も堅固な要塞の1つに仕上げられ、「北のジブラルタル」の 異名をとった。オーストリアの対仏最前線の要塞として期待されたのである。その堅固ぶりは、18世 紀末のフランス革命戦争で明らかとなる。フランス革命軍に包囲されたルクセンブルクは、実に7ヵ月 もの間持ち堪えたが、とうとう蓄えが尽き、1795年6月6日に降伏を余儀なくされた。 1815年のウィーン会議の結果オランダ王国が成立すると、ルクセンブルクは同君連合のもと大公 を兼任したオランダ国王オラニエ=ナッサウ家の統治下となった。しかし、ルクセンブルク大公国は 同時にドイツ連邦にも加盟していたため、国内にはプロイセン王国軍が駐屯し、ルクセンブルク城は 事実上ドイツ連邦の橋頭堡となった。 1867年、ロンドン会議の結果ルクセンブルクは永世中立国となり、プロイセン軍は撤退し、市中の 城壁も取り壊された。1890年にオランダ国王兼ルクセンブルク大公ウィレム3世が死去すると、新た なルクセンブルク大公にはナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフが即位した。アドルフの家系が、 現在まで続くルクセンブルク大公家となっている。 <手記> ルクセンブルクといえば、面積は神奈川県程度しかないものの、国内総生産世界第一位を誇る国 として知られています。その首都ルクセンブルクは、町そのものが堅固な要塞といえます。公宮など が建つ旧市街(オーバーシュタット)は、アルゼット川とペトリュッス川にはさまれた断崖の上に位置 しています。 ルクセンブルクの起源とされるボックの岩山は、アルゼット川が三方を削った岩尾根の先端です。 この岩山いっぱいに当時城が建てられていたそうです。現在、中世の城の面影はほとんど見られず、 近世に地下に築かれた地下要塞(通称「カズマット」あるいは「ボックの砲台」)が残されています。 ボックの砲台は、現在資料館兼史跡として整備されていますが、冬季は休業しているようです。 その他の城塞遺構としては、ペトリュッスの砲台があります。その名の通りペトリュッス川に面して 設けられた稜堡で、ノートルダム寺院とアドルフ橋の中間に位置しています。時間があれば、川沿い のグルント地区へ下りることをお勧めします。静かなグルントからルクセンブルク城を見上げれば、 北のジブラルタルと呼ばれた堅固ぶりがよりはっきりと見て取れるでしょう。 |
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ボックの砲台(ボック城跡)を望む。 | |
ボックの砲台からグルントとオーバーシュタットを望む。 | |
ペトリュッスの砲台(左手)とノートルダム寺院(中央)を望む。 | |
ペトリュッスの砲台とアドルフ橋。 |