![]() |
三国湊城(みくにみなと) |
別称 : 千手寺城、湊ノ城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 畑時能 | |
遺構 : なし | |
交通 : えちぜん鉄道三国神社駅徒歩15分 | |
<沿革> 建武五/延元三年(1338)に新田義貞が討ち死にすると、新田四天王の一人・畑時能は 義貞の弟・義助と共に越前で北朝との戦いを続けた。三国湊城はその拠点の一つとして、 白山千手寺を利用して築かれた。『太平記』には「中にも湊城とて 北陸道七箇国の勢共が 終に攻落せざりし城は 義助の若党畑六郎左衛門時能が 僅二十三人にて篭った平城成」 とある。しかし、時能は暦応四/興国二年(1341)に斯波高経との激闘の末に戦傷死し、 高経は同年中に越前を平定した。 千手寺自体は存続したようで、明応三年(1494)に加賀の一向一揆が越前へ侵攻した際 には、朝倉勢が千手寺城で防戦したとされる。永正三年(1506)に、伽藍は一揆により全焼 したが、その後に朝倉家臣・桜井新左衛門が三国湊城を居城とした。新左衛門は朝倉義景 の近臣で、天正元年(1573)に義景が織田信長に敗れて大野郡の朝倉景鏡を頼り、裏切り に遭って自害させられるまで付き従ったとされる。 これにより、湊ノ城も廃城となったとみられる。 <手記> 現在の日蓮宗妙海寺西側の墓地が、三国湊城跡とされています。石碑や説明板が設置 されているものの、遺構はみられません。江戸時代には港会所が、明治時代には郡役所が 置かれたということで、港町の中心地の一つであったようですが、城館らしさはありません。 眼前には港町が、南東には三国神社があることから、当時は海から少し入ったこの竹田川 と九頭竜川の合流点付近が、三国湊の河岸だったのでしょう。とはいえとくに要害性の高い 土地でもないので、千手寺全体ないし一角を城砦として取り立てたのでしょう。『太平記』に ある「僅か23人」が全兵力を指すのか、あるいは時能直属の家臣の数を指すのかは分かり ませんが、規模としてもそこまでではなかったものと推測されます。 ちなみに、お昼時だったので門前下にあった「生そば 新保屋」さんで越前そばをいただき ました。福井県産そば粉のみを使い、つゆの9割以上が大根の搾り汁だそうで、成程かなり 辛味が利いていて美味でした。 |
|
三国湊城跡現況。 | |
城址碑。 | |
説明板。 | |
港側を望む。 | |
![]() |
おまけ:「生そば 新保屋」さんの越前そば。 |