御坂城(みさか)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 武田氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋
 交通  : 富士急行線河口湖駅よりバス
       「天下茶屋」バス停下車徒歩60分


       <沿革>
           御坂峠越えのいわゆる「御坂みち」は古くは鎌倉街道であり、甲府盆地と郡内地方、および
          その先の駿東や相模を結ぶ重要な街道であった。御坂峠を挟んだ両側の街道筋に、武田氏
          時代のものと思われる烽火台跡があるが、両者は峠に阻まれて直接情報伝達することはでき
          ない。このことから、御坂峠には武田氏時代から烽火台程度の城砦設備があったものと考え
          られている。
           天正十年(1582)、本能寺の変により空白地帯となった武田旧領を巡って、徳川家康と北条
          氏直の間で天正壬午の乱が勃発した。徳川軍は中道往還などからまっすぐ甲府盆地へ侵入
          したが、北条軍の主力は碓氷峠を越えて信州佐久へ進軍すると同時に、北条左衛門佐氏忠
          (氏直の叔父とされる)らの別動隊が甲州郡内地方へ侵攻した。甲府盆地と郡内の境に位置
          する御坂峠は最前線となり、北条勢は峠の稜線に陣城を築いた。これが御坂城である。城に
          はおよそ8千〜1万の将兵が駐屯していたといわれる。
           八月十二日、氏忠勢は峠を下って徳川勢に戦いを挑んだ。徳川方の鳥居元忠ら約2千は、
          黒駒でこれを迎え撃ち、北条勢およそ3百を討ち取って勝利した(黒駒合戦)。『甲陽軍鑑』に
          よれば、氏忠は「矢村(谷村のことか)」まで退き、曾根下野(昌世。徳川方の武田旧臣)が
          「黒駒峠の敵陣城」を「取かたむる」とある。これが正しければ、御坂城は黒駒合戦に際して
          徳川勢に攻め落とされたことになる。
           黒駒合戦により、兵力で圧倒的に優っているうえに三方から取り囲む形をとっていたはずの
          北条勢はその一角を突き崩されたうえ、信濃を中心に国人層の離反が相次ぎ、兵站の維持
          が困難となった。結果、十月二十一日に至って両者の間で和議が結ばれた。
           天正壬午の乱の集結をもって、御坂城は役目を終えて廃城となったものと思われる。

          
       <手記>
           御坂城は、上述の通り御坂峠とその両サイドの稜線上に築かれた城です。現地説明板に
          よれば、『甲斐国志』には幻の城と書かれ、長らく存否不明だったそうですが、昭和四十三年
          (1968)に古絵図が見つかり、その存在が明らかとなったそうです。ただ、御坂峠越えの山道
          は旧御坂トンネルが開通するまでは現役の幹線道路だったわけですから、その峠を包摂して
          築かれている城跡がまったく知られていなかったというのも、少々不思議には感じます。
           今回は、『黒備えの古城探索』管理人の黒備えさんや『儀一の城館旅』管理人の儀一さん
          たちのオフ会に同道させていただくことになりました。待ち合わせ場所の天下茶屋に未明に
          到着すると、すでに少なからぬ人影が。御坂城ってそんなにメジャーだっけ?と思っていたら、
          どうやら彼らの目的は朝焼けの赤富士を写真に収めることでした。いや、絶景でしたよ(笑)。
           御坂峠一帯はハイキングコースとして整備されており、日が昇ってからはハイキング客が
          数多くやってきました。そんななかで一種異様な城オタクの集団は、一路城跡を目指します。
          天下茶屋から登るのが、もっとも比高差がないとはいえ、稜線に出てからもひたすらアップ
          ダウンを繰り返しながら延々と山道が続くので、かなりきつい訪城となりました。単独だった
          ら、途中で心が折れていたかもしれません。
           御坂城は、大きく分けて3つのブロックに分かれています。峠の東側のピークと峠の西側の
          尾根筋、そしてそのさらに西側の少し上ったところにあるエリアの3つです。便宜上、ここでは
          東から東城、中城、西城と呼ぶことにします。
           東城は、ピーク山頂に城内最大と思われる曲輪を置き、その周囲を堀や土塁で防御する
          格好となっています。曲輪内の削平はそこまで徹底しておらず、駐屯スペースの確保に主眼
          が置かれているように感じられます。対して中城は、複雑な曲輪配置が特徴で、削平も行き
          届いており、いくつかの曲輪は直角に折れた土塁で方形にしつらえられています。
           東城と中城に共通する大きな特徴は、甲府側に面した斜面に長大な横堀と土塁を設けて
          いることです。さらに、この堀&土塁の中途には、両サイドを土塁に挟まれた竪堀がいくつか
          みられます。想像するに、敵兵の侵入路を限定したり、城兵の動きを外から見えなくしたり、
          あるいは1万ともいわれる駐屯兵の塒とするなど、いくつかの用途が考えられます。あまりに
          巨大かつ良好な遺構なので、戦後に至るまでこれに気付かないものかとやはり疑問に感じ
          ます。
           中城の横堀はそのまま斜面を上って西城にまでつながっています。ですが、西城は他の
          2つのエリアに比べれて格段に簡素です。曲輪は大きなものが1つ。背後の尾根筋に堀切を
          1つ設けて終わり、という感じです。おそらく、西城はほとんど物見の用途に限定されていた
          のでしょう。
           御坂城は3つのエリアから成ると書きましたが、それより東側にも、御坂山の東の峰あたり
          まで、断続的に遺構らしきものがチラホラと見受けられます。ただ、大系的にまとまって何か
          城砦らしきものを形成しているとまではいえないようで、おそらく兵の駐屯のために増設され
          たものか、武田氏時代の烽火台の名残ではないかと思われます。
           このように、御坂城は急ごしらえの陣城であるにもかかわらず、豪壮かつ複雑な縄張りを
          残す城です。ただ、北条氏が築いたままの姿であれば、攻められる心配のないはずの河口
          湖側にも堀やいくらか巡っているのが少々不自然です。あるいは、黒駒合戦の後に、接収
          した徳川勢が多少手を加えたのかもしれないと、振り返ってみてふと感じました。

           
 東城主郭のようす。
東城東端の堀切と土橋。 
 2条目の堀切。
堀切に続く竪堀と横に派生する横堀を望む。 
 横堀のようす。
東城甲府側斜面の横堀と土塁。 
 横堀から延びる土塁に挟まれた竪堀状堀底道。
西城と中城の間の峠の堀切。 
 峠の堀切脇の曲輪と直角土塁。
同じく直角土塁と虎口(土塁の左側)。 
 中城の河口湖川の横堀。
中城の長土塁。 
 中城の甲府側の長横堀と長土塁。
土塁と堀が二重になっている箇所。 
 中城の横堀から延びる土塁に挟まれた竪堀状堀底道。
西城へと続く堀と土塁。 
 西城の堀切。
西城の曲輪のようす。 
 御坂山付近の腰曲輪状の削平地。
御坂山以東の峰先にある虎口状地形。 
烽火台の名残か。 
 おまけ:御坂山周辺から望む富士山。


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