本栖城(もとす)
 別称  : 本栖城山
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁、石塁
 交通  : 富士急行河口湖駅よりバス
       「上九一色中入口」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           『甲斐国志』に「里人、源吉春と云ふ人の城と云伝ふれども、其の人未だ考えず」とある。
          源吉春という人物については今なお不明である。
           天文・永禄年間(1532〜70)ごろの武田氏の文書に「本栖在城」という言葉がみえること
          から、このときまでには築かれていたと考えられている。天文二十二年(1553)の武田氏の
          朱印状には「勤本栖之番」とあることから、周辺領主が城番を務めていたものと推測される。
           天正十年(1582)、武田氏が織田信長によって滅ぼされ、さらに信長も本能寺の変で斃れ
          ると、本栖の領主渡辺囚獄佑守(ひとやのすけまもる)は徳川家康に従い、家康の命で城の
          守備にあたった。
           廃城時期は不明だが、天正壬午の乱から程なく廃されたものと推測される。


       <手記>
           本栖城は、本栖湖と精進湖の間の烏帽子岳から伸びた峰上にあります。城の三方を中道
          往還がぐるりと迂回する格好となっています。中道往還は駿河と甲斐の国中を結ぶ重要な
          街道で、これを監視する目的で築かれたものと考えられます。
           城は、細長い峰に多くの堀切を設けているのが特徴です。広さのある曲輪は、主郭とその
          前後の曲輪そして主郭下の腰曲輪程度で、あとは堀切の間に小スペースがあるという程度
          のものです。不思議なのは、峰の先端の方はほとんど原地形に近く、先端からかなり城に
          近づくまで堀も曲輪も作られた形跡がないことです。前線防衛のための城とするなら、この
          点は大きな欠陥と思われます。おそらく本栖城は、烽火台から派生した街道監視の城の域
          は脱していなかったのでしょう。
           ただ、途中から忽然と現れる連続堀切は見事で、大きな堀が狭い間隔で並んでいます。
          また主郭背後の曲輪には、狼煙台と呼ばれる岩を削って作られた櫓台があり、その後ろに
          はこれまた岩盤を削った堀切があります。主郭からは恐ろしいまでの青木ヶ原樹海の景色
          が広がります。
           街道監視の城ということから、本栖城では麓の中道往還の遺構にも着目する必要があり
          ます。城の南麓には検問施設と思しき石塁が、北麓には信玄築石と呼ばれる石塁があり
          ます。中道往還を南へ向かうと、上九一色中学校に出ます。その途中には、同様に人工物
          に見えなくもない石積みが点在しているのですが、いかんせん一面溶岩の森なので、どこ
          までが人の手によるもので、どこまでが自然のものか判別しがたい状況です。
           また、中学校南東隅付近には「両替屋敷」と呼ばれる一画があります。ここには、人工と
          思しき土塁や石塁があります。中道往還に面して櫓台状に土が盛られ、背後には石積みで
          区画されたスペースが並んでいます。おそらく、街道監視に関わる施設があったのでしょう。

           
 東から登って最初の堀切。
2つ目の堀切。 
 3つ目の堀切。
4つ目の堀切。 
 主郭のようす。
主郭背後の曲輪にある烽火台。 
 烽火台背後の堀切。
主郭北の腰曲輪。 
 本栖城址から青木ヶ原樹海を望む。
本栖城南麓の石塁。 
 両替屋敷と呼ばれる一画の土塁。


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