長坂氏屋敷(ながさかし)
 別称  : 釣閑屋敷
 分類  : 平山城
 築城者: 長坂氏
 遺構  : 土塁、堀、削平地
 交通  : JR中央本長坂駅徒歩20分


       <沿革>
           武田勝頼の側近として名高い長坂釣閑斎光堅の屋敷跡と伝わる。長坂氏は一般に小笠原氏
          庶流といわれるが、いつどのように分かれたのか定かでない。他方、『甲斐国志』では、長坂の
          龍岸寺に南北朝期の甲斐守護武田信成の子栗原武続の法名である「俊公居士」の名がみられ
          ることから、長坂氏を武田氏一族栗原氏庶流と推測している。
           釣閑斎光堅は、『甲陽軍鑑』において徹頭徹尾勝頼を破滅へ導く奸臣として描かれているが、
          実際には信玄の時代から主に内政・外交面で活躍していたことがうかがえる。天正十年(1582)
          の織田信長に拠る武田攻めに際して主君勝頼とともに自害ないし戦死したとも、捕えられて処刑
          されたともいわれ、その最期については詳らかでない。
           『国志』では、同年の本能寺の変後に発生した天正壬午の乱において、北条氏が取り立てて
          使用したとする説を唱えているが、確証はない。いずれにせよ長坂氏宗家は当時すでに絶えて
          おり、乱も同年中に終結しているので、天正十年内には廃城となったものと推測される。


       <手記>
           長坂氏屋敷は、長坂上条の小盆地に突き出た丘陵の角に位置しています。実は以前に一度
          訪ねたことがあるのですが、そのときは猛烈な藪に覆われていて、遺構はおろか館跡がどこに
          あるのかすら分からず仕舞いで断念してしまいました。ところが今回再チャレンジしてみたところ、
          藪は綺麗に刈られ、麓からでも土塁のラインが見て取れるほどでした。
           台地の角とはいうものの、堀と土塁は二辺ではなく三方コの字型に配され、台形に近い形状
          をしています。この時点で明確な居館造りといえ、『国志』がいうような北条氏に取り立てられた
          とする説は首肯しがたいように感じます。もし修築したのだとすれば、もう少し陣城として整備が
          されているところでしょう。
           長坂の地は隠れ里のような盆地地形にありながら八ヶ岳の伏流水が豊かで、今も昔もかなり
          生産性が高かったことだろうと拝察されます。このような恵まれた地を押さえながら、長坂氏の
          素性についてはよく分かっていないというのは少々意外です。また権臣として知られる釣閑斎の
          居館にしてはだいぶ控えめなようにも感じます。
           この点、『日本城郭大系』では盆地の集落中央にある方形の区画に着目し、こちらにも屋敷が
          あった可能性を示唆しています。たしかに、上の地図でもはっきり分かるとおりの方形の道路に
          囲まれた箇所があり、ここに広大な屋敷があったとしても不思議ではありません。
           また個人的には、より谷戸の奥の窪地に位置する龍岸寺や、その南東尾根先の妙要寺など
          も、釣閑斎以前のより古い長坂氏の遺蹟として考えられるように感じました。ためしに妙要寺の
          丘に登ってみたところ、一応規模の大きめな竪堀状の地形が認められました。ただ、これを城の
          遺構としてみた場合に、全体像がちょっと想像につきにくいためこちらにも城砦があったと断言
          するには至らない感じです。


           
 長坂氏屋敷跡を望む。
 中央にうっすら土塁のラインが見えます。
東辺の堀と土塁。 
 同上。
西辺の堀と土塁。 
 南辺の堀と土塁。
南西隅付近の土塁。 
 北辺下の腰曲輪状削平地。
妙要寺脇の竪堀状地形。 


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